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この記事の目次
アルフレッド大王の統一とヴァイキング北海帝国の支配
8世紀から11世紀になると、第2次民族大移動と呼ばれるノルマン人ヴァイキングのブリテン島への移動が断続的に続き、ブリテン島の海岸各地では大陸のユトランド半島を原住地とするデーン人が活動を開始します。
886年、ウェセックス王アルフレッド大王は、ヴァイキングであるデーン人に反撃しロンドンを奪還。同時に境界線を設けてデーン人の移住を認め、法律を制定し州制度を導入、ラテン文芸など学問の保護に努めイングランドの基礎を築きます。
しかし、11世紀に入るとデーン人の大規模な侵攻が再開、イングランドでも内紛が起きるなどしデーン人のクヌートが1016年にイングランド王位についてデーン朝を開き、デンマーク、ノルウェー王を兼務して北海帝国を建国しました。
ところがクヌートの死後は、有力な後継者が出ずデーン朝は崩壊。1042年にはアングロ=サクソン系のエドワード証聖王が復位しました。
エドワードはキリスト教を保護、ウェストミンスター寺院を創建して各地に教会を建設。この時代にイギリスでは三圃制農業が始まり、領主と農奴関係と教会の支配という中世封建社会の基本が形成されます。
ノルマンディー公ウィリアムの征服
しかし、アングロ=サクソン王国は1066年、ドーヴァー海峡を渡って侵攻してきたヴァイキング、ノルマンディー公ウィリアム(ギョーム)にイングランド王、ハロルド2世が敗れて、滅亡してしまいました。
どうして、ハロルド王があっさり敗れたのかというと、この人物、有力貴族ゴドウィン家の出身ながら義弟のエドワード懺悔王の急死で即位したという事でイングランド王としての正統性に乏しかったようです。
おまけにイングランドの北では、弟のトスティが兄の即位に反対し、こちらもヴァイキング、ノルウェー王ハーラルを後見人としてイングランドに攻め込んでいました。
ハロルド2世は、最初に北部のヨーク近郊でノルウェー軍を破り、すぐさま南下してへイスティングスに陣を敷きましたが、ハロルド軍が歩兵主体であるのに対しウィリアムは騎兵を主体としており、戦争はウィリアム優位で進み、ハロルドは戦死してしまったのです。
海のバーサーカーヴァイキング相手に二正面作戦を戦い、しかもイングランド貴族全てが応援しているわけではない戦況で奮闘したハロルド2世は決して無能ではないと思いますが、運が悪すぎましたね。
変質したイングランド
ノルマン公ウィリアムが開いたノルマン朝は、それまでのイングランド王国とは全く異質な王朝でした。
まず、少数者の外来政権であるノルマン朝は国王が広大な領地を所有したほか、アングロ=サクソン系の貴族から土地を奪い大陸から渡って来たノルマン系貴族に土地を与える事で強固な封建体制を築き上げます。
これは、それまでの貴族の寄せ集めのイングランド王国とは大きな違いです。また、ウィリアムはイングランドのみならず、大陸のノルマンディーにも土地を持ち、この傾向は次のプランタジネット朝でも継続します。
ノルマンディー公ウィリアムは、大陸においてはフランス王の臣下であり、イングランドでは王、フランスでは臣下というねじれた現象が起きていて、このねじれが元で英仏百年戦争が勃発する事になりました。
そして、ノルマン朝ではフランス語が公用語であり、貴族も役人もフランス語を話し、フランス文化が花開く事になります。これにより、大陸のフランスの影響をイングランドは受けると共に、多くの文化が重層的に混じる独特なイギリスの文化が形成されていく事につながるのです。
マグナ=カルタと議会政治
1154年、ウィリアムが開いたノルマン朝が断絶。血縁のフランスのアンジュー伯アンリが王位を継承しヘンリ2世となりプランタジネット朝が幕を開きました。
ヘンリ2世はイギリスとフランスにまたがる広大な領土を持っていましたが、ノルマン朝同様に宮廷ではフランス語が使用され、フランスとの一体感が強い時代です。しかし、足元では貴族と教会が力をつけ王権より優位になってきた時期でもありました。
ヘンリ2世の子が、第3回十字軍で有名な獅子心王リチャード1世です。ただ、知名度とは裏腹にリチャードは在位中、ほとんど国内になく戦争に明け暮れており、戦費のみが国民に課され国王への不満を高める事になっていきます。
リチャードが死ぬと弟のジョンが即位しますが、あまり出来がよろしくない王で、カンタベリー大司教の任命権をローマ教皇と争い破門されまたフランス王フィリップ2世と争って敗れフランス国内のノルマンディーの領地を失いました。
これに貴族が猛反発し、1215年マグナ=カルタ(大憲章)を起草してジョン王に認めさせ貴族の権限を保障し国王の権限を制約する事に成功します。そこには、国王が新しく課税する際には、必ず会議を招集し貴族の承認を得るという一文もありました。マグナ=カルタにより「王も法には服する」法治主義の原則がイギリスで確立したのです。
次のヘンリ3世はマグナ=カルタを無視して貴族に課税しようとしたので、貴族はシモン=ド=モンフォールを指導者に反乱を起こしヘンリ3世は捕虜とされます。
こうして1265年には初めて議会が設置され、さらに1295年にはエドワード1世がスコットランド遠征軍の費用を調達すべく議会を招集しました。
以後、イギリスでは身分制による議会政治が開始される事になります。エドワード1世の時代になると宮廷でも英語が使用されるようになり、イギリスはフランスの影響を離れて独自の文化を生み出していきます。
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英仏百年戦争
プランタジネット朝のエドワード3世は、フランスの王位継承権を主張して1339年に百年戦争を起こします。戦争の背景には、三圃制の普及による農業生産力の向上により羊毛産業が発展、羊毛の輸出先となる毛織物工業の盛んなフランドル地方を支配しようと目論んだ事がありました。
一方でフランス側も国内のアキテーヌ地方など、イギリス王室領の奪回を目指します。戦いが長期化するとエドワード3世は、イギリス国内の12歳以上の全ての人口に人頭税を課しました。
これにより全ての階層が重税に苦しみますが、追い打ちをかけるように黒死病が大流行。大勢の農奴が死亡した為、領主は労働力を確保しようと農奴の移動を禁止し、過酷な労働を強制しました。
重税を課された上に自由を奪われた事で農奴が我慢できずに武装蜂起し、ワット=タイラーを指導者に農民一揆、ワット=タイラーの乱を起こします。
農奴反乱を鎮圧したリチャード2世ですが、その後も重税を課す為、うるさい議会を停止するなど貴族や都市の商工業者の反感を買い廃位に追い込まれました。貴族たちは、代わりにランカスター家のヘンリ4世を即位させ、プランタジネット朝が断絶しランカスター朝が開かれます。
次のヘンリ5世もフランスを攻撃しますが、次第にフランス軍に押されていきます。救国の聖女、ジャンヌ=ダルクがフランスに登場した事もありイギリスは敗色濃厚になり、ヘンリ6世時代の1453年百年戦争は終結。イギリスはカレーを除くフランス国内の領土を全て失いました。
バラ戦争で絶対王政の下地が形成
戦争の余波は続き、1455年ランカスター朝のヘンリ6世に対し同じプランタジネット家の傍系のヨーク家のエドワードが王位継承権を主張してバラ戦争が勃発しました。
1461年には、ヨーク朝が成立しますが、王位を簒奪したリチャード3世が暴政を敷くと、大陸に亡命していたランカスター家の後継者ヘンリが1485年のボスワースの戦いでリチャード3世を破って即位し、ヘンリ7世としてテューダー朝を開きます。
バラ戦争でイギリスの貴族は2つの陣営に分かれて争い、内戦の長期化で没落しました。代わって最終的な権力を握ったテューダー朝の王権に権力が集中、絶対王政の態勢が形成されました。
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エリザベス1世絶対王制を確立
16世紀のテューダー王朝でイギリスは強大な王権による絶対王権を確立させます。絶対王政の成立にはバラ戦争による封建領主の没落、それに代わるジェントリと言われる土地貴族層と都市の商人の台頭がありました。また、農村の中間層として農奴から解放されたヨーマンと言われる独立自営農民も成長していきます。
同時にジェントリやヨーマンによる農村毛織物産業の発展に伴って囲い込み運動が進行し、追い立てられた農民は土地を離れ都市に勃興したマニファクチュアでの賃金労働化が進みました。
このような経済発展は封建的、分権的な国家体制ではなく、王権の下に統一された国家機構を必要とします。また、この時代国王をしのぐ権力を持った教会ですが、イギリス・チューダー朝のヘンリ8世は、自己の離婚問題を契機にローマカトリックと決別しイギリス宗教改革を断行。
1534年に首長法を制定して国王を頂点とするイギリス国教会にイギリス教会を造り替え、修道院の解散にも踏み切りプロテスタント化を進めました。
次のエドワード6世の時の一般祈祷書制定などによって教義と教会儀式を整備、メアリ1世の時にはカトリックへの反動があったもののエリザベス1世が態勢を立て直し統一法を制定し国教会支配が確立します。
イギリスの絶対王政の全盛期は、エリザベス1世の時代に相当します。エリザベス女王は宗教改革を完成させ、教会組織の頂点に立って国家を治め王権を確固たるものにしました。
その時代はシェイクスピアの活躍に代表されるイギリス・ルネサンスの開花した時代でしたが、国家財政状況は困難で経済的な繁栄期と言うわけではなく、社会の内部も第一次囲い込みにより、富裕なジェントリ階層と土地を失い都市に流れ込んだ貧困労働者で二極化します。1601年に制定された救貧法は、イギリス社会の悲惨な状態を端的に表しています。
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