世界史の授業では必ず習う、ローマ帝国の分裂と西ローマ帝国の滅亡。しかし、西暦476年に滅亡した西ローマ帝国と違い、東ローマ帝国はさらに寿命を保ち、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまで1000年近くも継続します。
では、どうして西ローマ帝国は滅亡し東ローマ帝国は繁栄し千年も続いたのでしょう?
この記事の目次
どうしてローマ帝国は分裂した?
東ローマ帝国の長寿を探る前に、どうしてローマ帝国が分裂したかをおさらいします。初代アウグストゥスの皇帝就任により帝政ローマはスタートします。しかし、2代ティベリウス帝の死後から政治と軍事の両面で変化が発生しました。
最初の変化は共和政末期から始まっていた自作農の没落による徴兵制の破綻です。これにより、ローマ帝国は徴兵制を捨て傭兵制に切り替えました。しかし、利益で動く傭兵団は、世襲の弊害でカリグラやネロのような無軌道な暴君が登場すると対立候補を掲げて決起し、ローマ市民に見捨てられた皇帝を暗殺しては、自分達に都合のよい皇帝を立てるようになります。
ローマ帝国が拡大するとゲルマン人のような周辺蛮族が、ローマ市民権を求めて続々と軍団に志願、ローマ軍の蛮族の比率が増大し、軍の劣化や反乱の数が増加しました。
2世紀の五賢帝の時代を経過すると天然痘の流行で人口が激減、労働力の低下で農業生産力も低下し各地で反乱が勃発しました。セウェルス朝ではローマ市民と属州民の待遇差別解消を狙い、212年にカラカラ帝が「アントニウス勅令」を出し、ローマ支配下のすべての地域に同等の市民権を認めます。
しかし、市民権が無料になった事で帝国内蛮族がローマ兵になるメリットが消滅し兵力が激減、不足分をゲルマン人などの周辺蛮族から直接補充するようになります。つまり、これまでは蛮族に、まがりなりにもローマ式の訓練を施していたのが、そのまま蛮族の軍隊を直で雇い入れるようになったわけです。
284年に最後の軍人皇帝になったディオクレティアヌスは、それまでの緩やかな元首制を廃止。専制君主によるオリエント型統治を志向し、四方に敵を抱える帝国の状態を考え2人の正帝と副帝によりローマ帝国を統治していくテトラルキア(四分割統治)を採用。
しかし、ディオクレティアヌスが305年に引退するとテトラルキアは崩壊し、西方副帝だったコンスタンティヌス1世が有力になり統一皇帝になります。
コンスタンティヌス帝の死後も、しばしばローマ帝国では分割統治が行われ、テオドシウス1世が395年に死去すると長男アルカディウスにローマ帝国の東を、次男ホノリウスに西を与えて分割、以後ローマ帝国は東西に分かれて続く事になりました。
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ポンコツ皇帝、ホノリウスの治世で崩壊する西ローマ
テオドシウス1世により、西ローマの統治を任されたホノリウスですが最初から貧乏くじを引いていました。西暦392年、西方正帝ヴァレンティニアヌス2世が死去すると、西ローマ帝国では元老院議員のエウゲニウスが次期皇帝として推戴されます。
これに対して、テオドシウス1世は9歳の息子のホノリウスを西方正帝と宣言して西ローマ帝国に侵攻し394年にフリギトゥスの戦いでエウゲニウスを破り西ローマ帝国の首都、メディオラヌムを占領。ホノリウスを即位させますが、それから4カ月後に死去します。
ホノリウスは当時10歳でしたが、即位の経緯から西ローマ帝国の人々の憎悪を得ていて、テオドシウス1世の死後は反乱が頻発したのです。首都のメディオラヌムも402年に西ゴート族が侵入するとラヴェンナに遷都し、以後、ホノリウスは、ここに籠り切りました。
蛮族がイタリアを蹂躙する中でも、皇帝のいるラヴェンナだけは軍により徹底的に防衛され安全でした。ホノリウス帝は、年少であると同時にポンコツで、実際の政務はヴァンダル族出身の将軍、スティリコがおこなっていました。さぞかしポンコツ皇帝を差し置き贅沢三昧していただろうと思いきや、スティリコは、「イタリアの守護者」と呼ばれる英雄で、ひっきりなしに西ローマを攻めてくる蛮族と戦い帝国を支える名将でした。
しかし、ポンコツなのに皇帝のプライドだけは高いホノリウスは、スティリコが西ローマ帝国へ向かって不在の時にオリュンピウスという奸臣の口車に乗り、東方より帰還したスティリコを捕らえて処刑してしまったのです。
これに対し、一番動揺したのは、スティリコと同じく蛮族として西ローマに住んでいる人々でした。
ポンコツ皇帝ホノリウスは、蛮族の動揺を恐怖で鎮めようと、スティリコの妻、セレナまでみせしめで処刑しますが、これに恐怖した蛮族出身者は西ゴート族のアラリック1世のもとへ逃亡し、卑劣な皇帝を懲罰して欲しいと懇願します。
アラリック1世はスティリコの宿敵でしたが、東ローマが支払うべき給金を西ローマ帝国が支払う事を条件に講和していました。しかし、ホノリウスが給金支払いを停止していたので支払い督促も含めて、3度もローマを包囲し和解金を求めますが、ポンコツホノリウスは、ローマに住んでいない俺には知ったこっちゃないとばかりに交渉を拒否。
しまいには、話し合いにやってきたアラリック1世に軍勢を差し向けて殺そうとしたので、流石にアラリック1世も呆れて平和的交渉を断念、西暦410年ローマを3日間略奪します。
西暦423年、ホノリウスは39歳の誕生日を迎える前に死亡、子どももいませんでした。西ローマ帝国臣民の為に、全く働かないまま帝国を傾けたポンコツ皇帝はベッドの上で大往生しました。
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蛮族将軍に愛想を尽かされ西ローマ帝国滅亡
西ローマは、ホノリウスの甥ヴァレンティニアヌス3世の時代に、アフリカ州、シチリア島、地中海沿岸をヴァンダル族に略奪されます。451年、蛮族出身のフラウィウス・アエティウスがフン族の王アッティラに対して大勝利を収め、同じくアエティウスによるガリア南部における西ゴート族に対しても勝利します。
また、ライン川やドナウ川への侵入者を撃退し西ローマ帝国に貢献しますが454年にアエティウスは名声を恐れたウァレンティニアヌス3世により殺害。さらに、ウァレンティニアヌス3世もアエティウスの元部下に殺されてしまいました。
このように一生懸命蛮族将軍が尽くしても、ポンコツ皇帝が名声を恐れて排除するという事が続いたので、蛮族将軍は、「東ローマ皇帝がいるし、西ローマ皇帝はいらねえか」と判断し、476年にロムルス・アウグストゥスを廃位して西ローマ帝国を滅ぼします。
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東ローマ帝国はどうして滅びなかった?
さて、東ローマ帝国を統治する事になったアルカディウスですが、こちらも弟のホノリウスに劣らないポンコツ皇帝でした。西暦383年に6歳で東方正帝になりますが、政治に関心を示さず全くの無能でした。唯一、弟に勝ったのは帝国の執政官、フラウィウス・アンテミウスを信頼しこれを排除するような事をしなかった点です。
こうして、アルカディウスは408年には死去し、副帝で息子のテオドシウス2世が東ローマ皇帝になりました。テオドシウス2世は能書家と呼ばれた教養人で神学や学問に熱中、そして熱中しすぎて政治を顧みません。
政治は引き続き重臣が動かしますが、パンノニアに本拠地を置いたフン族のアッティラ大王に度々領内を侵略されたので、首都であるコンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁テオドシウスの城壁を築きました。
実は、コンスタンティノポリスの城壁は437年と447年に大地震で一部が崩壊、448年にも大地震を受けます。これには、さしもの学問バカ、テオドシウス2世も本腰を入れねばならず、オリエンス長官のフラウィウス・コンスタンティヌスに修理と大増強を命じます。
それにより、1453年にオスマン帝国の大砲で破壊されるまで敵をよせつけなかったグレートウォールが誕生しました。
コンスタンティノープルは、西暦324年コンスタンティヌス帝により王都に定められますが、三方を海に囲まれて守りやすいだけでなく、中国、インドなどより東からのヨーロッパへの陸路商業ルートであると同時に、北南の黒海と地中海の海路ルートも通っている東西文明の十字路でした。
ここに強力な海軍を置いて守り、通過する船から関税を取るだけで、十分に帝国の経済を賄える存在だったのです。これにより東ローマ帝国はいくら領土が侵略されようと、コンスタンティノポリスに籠城して時間を稼ぐ事で大抵の敵を跳ね返す事が出来たのです。
※1204年に第4回十字軍に敗北して、コンスタンティノポリスは一度陥落して滅亡し再興しているので無敵ではなかったですが…
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東ローマ帝国繁栄の要因
さらに、東ローマ帝国には、以下のような繁栄の要因があります。
1 | 穀倉地帯のシチリアをゲルマン人に奪われた西ローマ帝国と違い、東ローマ帝国は、アナトリア、シリア、エジプトのようなゲルマン人の手の届かない穀倉地帯を保有していた。 |
2 | アナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族を上手く使った。 |
3 | 西ゴート人や東ゴート人に貢納金を支払い、西ローマ帝国へ移住させた。 |
4 | 蛮族の侵攻で偏狭な民族主義になった西ローマと違い、民族の多様性を重視した。 |
5 | 西ローマ帝国領内の蛮族が東ローマ帝国の権威を必要としたので爵位などを与え宗主国として存続できた。 |
このような理由から、東ローマ帝国は西ローマ帝国の滅亡から、さらに千年近くも繁栄し続けたのです。
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世界史ライターkawausoの独り言
ローマ帝国の分裂と言いますが、実際に帝国を分けた皇帝たちは、決して永久の分裂になると考えた事はなく、外敵に備えて東西に長いローマを守るには皇帝も2人いるのが合理的と考えただけでした。
しかし、同じような要件で分裂した東西ローマの寿命が千年も違うとは驚きますね。
参考:Wikipedia
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