皇帝には、二つの名前があった!?諡号(しごう)とは何?

2015年12月14日


 

怒る 献帝

 

後漢の皇帝と言えば、献帝(けんてい)とか霊帝(れいてい)

とかいう名前がお馴染みでしょう。

 

また、魏に入っては武帝とか文帝という名前も出てくるようになります。

しかし、これらの名前は、彼等が生存していた時代に使われたものではありません。

彼等が在位している時には、単に帝(みかど)と呼ばれ、霊とか献というのは

彼等が死んでから贈られた諡号(しごう)だったのです。

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諡号は、いつから生まれたのか?

殷の大様002

 

諡号は、その原型を商()王朝に求める事が出来ます。

殷では十干(じっかん)と言い甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸

という十の文字を歴代の殷王に当てはめていました。

例えば、殷の湯王は天乙(てんいつ)次の王は外丙(がいへい)、

次の王は中壬(ちゅうじん)と言います。

因みに最後の紂王(ちゅうおう)は、帝辛(ていしん)と言います。

 

商王朝では、こうして王に使う文字を定める事で王権は連綿と繋がっている

という事を強調する意図があったようです。

 

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周の時代になると、諡号は王様以外にも付けられるようになる

 

時代が下り、周の時代になった紀元前9世紀、諡号は王ばかりではなく諸候や、

賢臣、後には高僧にまでつけられるようになります。

元々、つけられる文字には、毀誉褒貶(きよほうへん)の意味は無かったのですが、

次第に、立派な人物にはいい諡号を、残念な人には悪い諡号を贈るようになります。

 

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逸周書に記された、良い諡号、悪い諡号

 

戦国時代に著された逸周書には、この諡号の良い諡号と悪い諡号が記されています。

それによりますと諡号には、「美諡」「平諡」「悪諡」という3ランク、松竹梅があり

その中の松クラスの美諡には以下のものがあります。

 

「神」「聖」「賢」「文」「武」「成」「康」「献」「懿」「元」

逆に、これをつけられるとオシマイという暴君用の梅クラス、悪諡は以下です。

 

「野」「戻」「厲」「昏」「煬」「幽」「夷」

 

悪諡には、煬帝、幽王、厲王、幽王など、以後の時代に出現した

暴君暗君の諡が既に出てきていますね。

 

決して暴君、暗君では無かった後漢の献帝

 

後漢の最期の皇帝は献帝ですが、意外にも悪い意味ではなく美諡に入っています。

これは、次の王朝である魏の文帝、曹丕(そうひ)が献帝から禅譲を受けたという事で、

諡にも気を使った為かも知れません。

献は献上の献であり、目上の人に差しあげるという意味で、

曹丕という次の皇帝に皇位を献上するという意図があったのでしょう。

 

 

 

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自信満々の始皇帝は一度、諡号を禁止する

 

キングダム 始皇帝

 

しかし、後世の人間に自分を評価されるという事を嫌った帝王が出現します。

中国を史上初めて統一し、皇帝という位を造った秦の始皇帝です。

 

彼は、後の人間が自分に諡号をつける事を阻止する為に、自らを始皇帝と名乗り

以後の皇帝は2世皇帝、3世皇帝と番号で呼ぶように義務づけます。

ですが、そんな心配は必要なく秦は建国からたった15年で滅んでしまいます。

 

秦を継いだ漢の皇帝達は諡号を復活させたばかりか、

逆にこれを廟号(びょうごう)と帝号(ていごう)の二つに増やしてしまいました。

 

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廟号と帝号とは一体何か?

項羽と劉邦

 

前漢の皇帝たちは、諡号を二つに増やしてしまいます、それが廟号と帝号です。

例えば、楚の項羽(こうう)を破り、天下を統一した劉邦(りゅうほう)は、

帝号を高(こう)皇帝といい、廟号を太祖(たいそ)と呼ばれています。

前漢の7代目の皇帝である武帝は、正式には帝号を孝武皇帝、そして廟号を

世宗(せいそう)と言います。

漢の皇帝は、初代の劉邦以外は、最初に「孝」が入るのが常になっています。

 

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隋王朝以後、帝号が廃れて廟号が用いられた理由とは?

 

 

こうして諡号から誕生した、廟号と帝号ですが、隋(ずい)王朝以後、

帝号は使われなくなり廟号がもっぱら使用されるようになります。

その理由は、帝号がどんどん、長くなり使いにくくなったという事にあります。

例えば、名君として知られる、唐の太宗(たいそう)李世民の帝号は、

文武大聖大広孝皇帝といい、息子である高宗(こうそう)は天皇大聖弘孝皇帝と言います。

 

これだけでも充分長いのですが、時代を経過して北宋になると、

水滸伝に登場する文弱皇帝として有名な徽宗(きそう)皇帝の帝号は、、

 

・体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝

 

という尋常ではない長さになっていきます。

さらに、これが清の時代に入り名君として名高い康熙(こうき)帝になると、、

 

・合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝

と凡そ本人でも覚えていないであろう、長さになっています。

ちなみに康熙帝の廟号は聖祖(せいそ)です、これなら誰でも聖祖帝と言うでしょう。

 

廟号が贈られない皇帝のケース

 

 

ただ、皇帝でも廃された皇帝や、王朝の最期の皇帝には、

廟号がつかないというケースがあります。

それは、廟号とは皇帝の一族が代々プライベートに祀る名前であり

王朝が滅びると、その祭祀も途絶えるからです。

 

前に出た献帝、正確には孝献帝にも廟号はありません。

何故か、父にあたる霊帝にも廟号はありませんが・・

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

廟号は短い代わりに王朝によって被る事が多いので、

名前の混乱を避ける為に、廟号の前に王朝名をつけます。

例えば、漢の太祖(劉邦)、宋の太祖(趙匡胤)、魏の太祖(曹操)等です。

事実上、帝号が使われるのは隋の煬帝(ようだい)までで、

唐からは帝号が長くなるので、廟号に切り変わると覚えておくといいでしょう。

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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もちろん、食べるのはサーモンです。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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