三国志は漢の後の時代であり、三国志の初期には後漢書に名を連ねる人物も多数出てきます。しかし三国志演義などのイメージがあるのか、彼らに注目されるのは少ないのが寂しい所。
そこで今回は後漢の人物でもある、皇甫嵩という人物をご紹介します。彼は改めて見ていくと三国志時代の人物と比べても遜色ない人物ですので、この機会にぜひ知ってみて下さい。
皇甫嵩という人物
皇甫嵩は涼州の出身であり、曾祖父は度遼将軍、祖父扶風都尉を務めた名門の出身です。その才能は若い頃から評価され、学問、武術、馬術にせいを出していたことを評価されて推挙されたのですが、運悪く父が亡くなったことでこの話を断りました。
後に霊帝の公車により招聘されるまで要職に就くことはなく、その才に比べてあまり明るくない時代を過ごします。
黄巾の乱が始まる
そんな彼が大活躍し、脚光を浴びたのが黄巾の乱でのこと。朝廷によって左中郎将に任命され黄巾族討伐に向かわせるも、与えられた兵士は約四千人ほど、ここで義勇軍を募って四万人ほどに増えますが、相対する黄巾賊、波才の率いる軍は十万。
しかしここで彼の才能とどっかで見たような天気予報パワーが輝きます。波才軍に包囲された皇甫嵩は火計を行うことを提案し、しかも彼が敵軍に火を放つやいなや強風が吹いて波才軍を退けました。
この後、まだ名を挙げる前の曹操と合流して波才を破り、都郷侯に封じられた後も黄巾党軍を順調に破っていきます。
関連記事:黄巾賊はいったいどの辺を支配していたの?【素朴な疑問】
冀州刺史
その頃、冀州では黄巾賊が戦線を押していました。そこに向かわされたのが皇甫嵩、最初こそ黄巾賊に後れを取るも、敵の油断を見抜いてこれを攻め、張梁を破り、討ち取った数は三万とも言われています。
また既に亡くなっていた張角の棺も手に入れ、後に張宝も敗北したことで黄巾党は瓦解します皇甫嵩たちは最終的に十万近い首を挙げたともされ、事実上皇甫嵩がその軍団に止めを刺したとも言えるでしょう。
これによって皇甫嵩は左車騎将軍に任命、冀州刺史を領し、槐里侯に封じられました。その後は冀州の統治を行っていきます。
あの人に帝位まで勧められた
冀州統治において皇甫嵩は、冀州の税金の一年分を戦乱によって困窮した民に与えました。これに民たちは大喜びし、皇甫嵩を称える歌まで作っています。民を大事にした皇甫嵩は部下である兵士卒たちも大事にしたことで信頼厚く、その名声を聞きつけたのが閻忠という人物です。
「You!皇帝になっちゃいなよ!(超意訳)」
しかし皇甫嵩はこれを聞き入れることなく、あくまで漢の一臣下でい続けました。
因みにこの閻忠、若い頃の賈クの才能を見抜いて「張良、陳平に並ぶ人物」とまで評価した人です。そんな人にここまで言われたのですから、皇甫嵩の才は相当なものだったでしょう。
【次のページに続きます】