失脚と董卓との対立
しかし皇甫嵩は意外な所から失脚してしまいます。この頃、朝廷を仕切っていたのは十常侍、彼らに賄賂を贈らなかったことから讒言されたのです。
そして188年、陳倉を囲んだ梁州の王国(※人名)討伐に董卓と向かいますが、ここで二人は揉めます。結果として皇甫嵩は単独で勝利を手にしますが、これによって董卓に恨まれてしまいました。
その後も何度か董卓に殺されそうになるも周囲の助命嘆願などもあり、結果として董卓は皇甫嵩を殺害することなく、後に呂布によってその命を落とします。192年、皇甫嵩はこの世を去ります。奇しくも李カク達が反乱を起こした年でした。
彼らと名を連ねる
さて皇甫嵩の一生を見ていきましたが、彼の評価は「中国史上六十四名将」に名を連ねていることからも分かります。これは唐朝以前の中国史を代表する六十四人の名将たちの言わばピックアップ。
三国志時代の人々と並べて見てみましょう。
後漢:皇甫嵩
後漢の人物に関しては皇甫嵩以外にも名前が連ねられているのですが、それを差し引いて見ても凄い面子と並べられているのがお分かりでしょうか?
皇甫嵩は彼らと肩を並べる名将と後の人々は判断したのです。
どうして?
さてこんな皇甫嵩ですが、良く知らないという人も多いでしょう。それもそのはず、彼は三国志ではなく後漢書に記録されている人物であり、何より大きな要因として、三国志演義の影響もあります。
基本的に三国志演義では劉備たちが主軸になるので、どうしても黄巾の乱で活躍するのは劉備たちであり、日本で有名な三国志漫画、横山三国志でも「賄賂を渡さなかったから失脚しました」とだけ語られている人物。
このため皇甫嵩の注目度がどんどん下がっていったと思われますが、後漢の人物とは言えかなりの傑者、ぜひこの機会に見直してみて下さいね。
三国志ライター センのひとりごと
皇甫嵩に留まらず、三国志時代の前後、後漢、晋時代はどうしても触れられない、注目されない時代です。しかしこの時代あってこその三国志時代であり、これらの時代もまた三国志に繋がる時代。
皇甫嵩に関わらず、ぜひこの時代にも注目して見て下さいね。
より三国志が深く見れることでしょう……どぼん。
参考文献:後漢書七十一
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