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漢の時代、新婦の必需品だったウハウハ本
ウハウハ本は何も若い男性の必需品ではありません。当時の上流階級の女性は男性経験を積む前に若くして嫁入りにしてしまうので、春宮画が夫婦仲の鍵を握っていたのです。
実際に後漢の科学者で文人でもある張衡は、同声歌という詩で、これから新婚最初の夜を迎える新妻が「素女は私の師である」と言い、熱心に春宮画を見て学んでいる?様子を巧みに詠みました。
同声歌は、西暦100年頃の作品なので、三国志からもそんなに離れていません。例えば三国志に登場する仙人左慈は、房中術の達人である事からテキストとして多くの春宮画を保有していたかも知れません。
曹操だって、あくまでも健康長寿という名目で左慈から春宮画を貰ってウハウハしていたりするかも、あくまで妄想ですが…
大昔の春宮画は残っていない
三国志の頃の春宮画は、まだ材質がよくない紙ではなく絹などに描かれたと思われます。それというのも、正史三国志には顕彰されて県庁の壁に歴代の県令の肖像画が掛けられたというような描写が出てくるからです。
しかし、絹に描かれた春宮本は戦乱と長年の歳月に耐えられずに風化して消えてしまい、現存する最古の本は600年ほど前の明の時代に描かれたものでした。
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春宮画は日本に伝わり春画に
さて、中国で誕生したウハウハ本は、医学書と共に房中術を教える解説図として日本に伝来し偃息図と呼ばれました。
その後、安土桃山時代から江戸時代にかけ、印刷物の春宮秘戯図が明王朝から伝来。低価格になり、庶民にまで広がり需要が伸びて絵師によって多く描かれるようになります。
こうして需要が伸びると自然に房中術のジャンルを離れて、よりウヒョ!を強調した描写が出てくるようになり、春宮画から一文字取った春画が誕生しました。
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三国志ライターkawausoの独り言
最初は健康増進の房中術として世の中に出てきたウハウハ本、春宮画。しかし、宴会の席で光武帝がふざけ半分で部下に見せたところを見ると、その頃には健康増進から離れて、男子がハッスルする為の小道具の1つだったのかも知れません。
三国志の時代の春宮画が出土したら、どんなものだったのか是非見てみたいものです。
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