傅玄は劉陶を憎む余り父である劉曄を叩いた
どうして、傅玄が巧妙に劉曄を持ち上げた後で落として粉々にしたのか?
その原因は傅玄が劉曄の末っ子である劉陶と仲が悪かったからであるようです。傅玄の学説は鄭玄によって完成の域に達した古文学で、辺境の呉でこそ持てはやされたものの当時の中原では時代遅れになり、鄭玄の言説を否定した所からスタートした清談的経学が最先端でした。
そして、その発信源は曹爽のサロンであり先に出て来た劉陶はその一員です。この老壮経学は西晋に入り、古文学を抑えて国学となり、傅玄の屈託はさらに強いものになりました。
傅玄は思い込みが強い頑固者であり、その思い込みが劉陶のみではなく、劉陶の父の劉曄まで才能を頼むのみで忠義も徳も薄い人物として貶める事に繋がったのかも知れません。
ちなみに劉陶は、正史三国志に徳が薄いと批判され、後に毌丘倹の乱に際し、司馬師に対する受け答えが明瞭ではないとして殺害されています。
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三国志ライターkawausoの独り言
劉曄は徳行に欠けるとして、弾劾を受けたりしていますが、それは過去に郭嘉が陳羣に弾劾されたのと大差ない事です。
具体的には音楽よりも狩猟を好む曹丕に対し劉曄は諫めず「狩猟の方が音楽よりも楽しい」と迎合して主君を惑わすと弾劾されたという程度でした。これでダメなら郭嘉もダメのハズですが、傅玄は郭嘉を持ち上げ劉曄は落すというダブスタをやっているのです。
参考文献:正史三国志
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