孫呉の暴君として有名な孫晧、そんな彼も後宮に5000人の美女を集めたスケベでした。暴君の皇后と言えば、いや暴君ではなくても皇后は皇帝の寵愛が失せると殺されたり幽閉されたり悲惨な末路を辿るモノです。
ところが孫晧の皇后滕夫人に関しては、孫晧の寵愛が衰えた後も皇后であり続けました。それはどんな理由からだったのでしょうか?
呉の名門滕胤の一族として誕生
滕夫人は呉の名門滕胤の一族として誕生しました。やがて滕胤は孫綝との抗争に敗れて族滅されますが、滕夫人の父の滕牧は滕胤と疎遠だったので死罪を免れ辺境に移動させられます。
しかし、孫綝が孫休に誅殺されると恩赦によって呼び戻され五官中郎将に昇進しました。やがて孫和の子だった孫晧が烏程侯に封じられると、滕牧から娘を娶り妃とします。これが滕夫人で孫休の死後、孫晧が擁立されると彼女も自動的に皇后へと昇り詰める事になりました。
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父の滕牧を孫晧が嫌う
滕夫人が皇后になった事で、父の滕牧も引き立てられて高密侯の封じられて衛将軍となり録尚書事を兼任します。滕牧は遠いとはいえ、滕胤の一族なので重臣たちは尊貴であるとして、頗る讃えて孫晧に諫言させました。この頃には滕夫人も容色が衰えており、孫晧もワガママになっていて、ますます滕夫人を不愉快に思い、廃后しようと考えるようになります。
しかし、孫晧は滕夫人の廃后を決断できませんでした。その理由は生母で苦労して孫晧を育てた何氏が常に孫晧の左右にあり、廃后などしてはならないと諭していたからです。
また、史官も運暦から皇后を易える事は出来ないとし、孫晧はシャーマニズムを信じていたので滕夫人を除く事が出来ませんでした。滕夫人は、自分を庇ってくれた何氏に感謝し常に親孝行を尽くしたそうです。
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女手1つで孫晧を育てた苦労人何氏
滕夫人を庇った何氏は、孫権の騎兵隊長だった何遂の娘でした。ある時、孫権が兵営を巡幸していると、道端に立つ何氏を見初め、宦官に命じ彼女を三男である孫和に下賜。こうして何氏は孫和との間に孫晧を産みました。
しかし、西暦252年、二宮の変に原因する政争で孫和は太子を廃されて長沙に押し込まれ、翌年には孫峻と孫魯班の讒言で新都郡へ強制移住を命じられた上、途中で自害を命じられ自殺します。
多くの妃が孫和の後を追う中で何氏は踏み止まり「もし皆が殉死したら、誰が子供達を養うのですか!」と言い孫晧と孫和の遺児を養育しました。
孫晧は自分を苦労して育ててくれた何氏に頭が上がらず、自分が皇帝に即位すると何氏の一族も外戚として優遇しています。ただ何氏の一族は何氏と違い素行が悪く、外戚の力を利用して私利私欲を貪ったので人民は何氏を含め一族を恨んだそうです。
昭献皇后と尊号された何氏ですが、大変な苦労をしたので嫁である滕夫人に対しても優しく、その為に滕夫人は廃后を免れたのだと考えられます。
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父の滕牧が左遷され憂死する
孫晧の廃后を免れた滕夫人ですが、父の滕牧は暴君化する孫晧の災いを回避できず、ド田舎の蒼梧郡に左遷、爵位は剥奪されなかったものの道の途中で将来を悲観し憂死しました。
昭献皇后は西暦271年頃に死去したようですが、滕夫人は彼女の薫陶を受けたせいか、次々に増える孫晧の寵妃にも、ヒドイ仕打ちをする事がなかったようで孫皓の内宮では諸寵妃の中で皇后の璽紱を佩く者が多かったという事です。
孫家の皇后は、嫉妬深い人が多いイメージで、ライバルは問答無用で蹴落としそうですが、孫晧の諸寵妃が皇后の璽紱を佩いていたという事は滕夫人は人望が厚く慕われた存在だったのかも知れません。
滕夫人は、暴君と化して孤立してゆく孫晧の傍らにいながらも、その後も廃后される事なく、呉の滅亡後は孫晧に従い洛陽に移動して天寿を全うしました。
ほとんど誰にでも牙を剥いた孫晧が、遂には廃后しなかっただけでなく、孫呉が滅んだ後も共に洛陽に赴いた所を見ると、2人の夫婦仲は晩年については悪くなかったような気もしますね。
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三国志ライターkawausoの独り言
滕夫人の幸運は、姑である何氏の庇護を受けた事でしょう。でも、もし滕夫人がプライドが高く鼻持ちならない皇后であれば、何氏もそこまで積極的に庇おうとはしなかったのではないかと思います。
滕夫人も、滕胤が族滅されて命は救われたとはいえ、かなり苦労をした女性であり、そこから生まれた謙虚さや他人を労わる気持ちが身についていたのではないかと思います。
だからこそ、ライバルである孫晧の寵妃にも慕われ天寿を全うしたのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志 妃嬪伝
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