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呉との戦い
曹操は官渡の戦いで袁紹を破り、その後河北を征服して圧倒的な勢力を築きます。
しかし、赤壁の戦いで劉備・孫権連合軍に敗れ、天下統一には失敗し、曹操・劉備・孫権による天下三分の情勢となります。
そんな中、張遼は孫権率いる呉との戦いに備え、呉に対する前線基地である合肥に派遣され、北上してくる孫権軍を迎え撃つことになります。215年(建安20年)、曹操が漢中遠征を行っている隙をつき、孫権は大軍をもって合肥城を攻めます。曹操率いる魏の主力軍が不在であり、援軍が期待できない中で張遼は合肥城の防衛という困難な任務を任されていたのです。
そんな中、張遼はあろうことか積極的な攻勢に出ます。呉の主力が態勢を整える前に、わずかな兵で呉軍の先鋒を攻撃し、見事な戦いぶりでその出ばなをくじいたのです。
これによって呉軍の指揮は低下し、一旦は合肥城を包囲したものの、食糧不足や疫病によって撤退に追い込まれます。そして、張遼は再び出撃して撤退していく呉軍を追撃し、あと一歩で孫権を討ち取るところまで孫権を追い詰めます。
この合肥の戦いこそが、三国志における張遼の最大の武勲であり、張遼の名が歴史に刻まれるゆえんなのです。その後も、しばしば魏と呉の間には合肥城一帯を巡る攻防戦が繰り広げられますが、張遼の存命中に呉が魏の防衛を抜くことはできませんでした。この一点からも張遼の名将ぶりがうかがえますね。
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三国志ライターAlst49の独り言
いかがだったでしょうか。三国志における張遼は、呂布の部下であったり、魏と呉の戦いに主に参加していたりと、その活躍ぶりが主役級の人物から離れたところにあることから、どうしても脇役扱いされがちです。
しかし、正史三国志を読み解けば、張遼が三国志の数々の武将たちの中でも、他の猛将たちと引けを取らないような三国志屈指の名将であったと言えるのではないでしょうか。
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