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『正史』の太史慈:そもそも張遼と戦ってすらいなかった!?
『正史』の太史慈は、『演義』とは全く異なる描かれ方をしています。『正史』の太史慈は、孫策の死後にあとを継いだ孫権から信任を受け、劉表の支配する荊州との国境を守る建昌都尉に任命されます。
当時の荊州では劉表の従弟である猛将劉磐が荊州南部の長沙を守っていたため、これに対応する目的で孫権は猛将の太史慈を配置し、南方の守りを固めさせたと考えられます。
その後、何と建安11年(206年)に太史慈は病死してしまうのです。つまり、合肥の戦いはおろか、赤壁の戦いにすら参加していないのです。
『呉書』いわく、太史慈は死ぬ間際に「男として生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登りたかったものだ」と言い残して死ぬのですが、こうした天下獲りの野望をあらわにする言葉は、母の面倒を見てくれた孔融を助け、劉繇残党を集めて帰順させるという孫策との約束をしっかり守るという義に厚い太史慈像とかけ離れていて、どこか違和感を覚えます。
ともかく、『正史』の太史慈はそもそも張遼と戦う前に病死していて、合肥の戦いでの両者の激突は、名将同士を戦わせるという『演義』の演出ということなのですね。
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三国志ライターAlst49の独り言
いかがだったでしょうか。張遼と太史慈の対決は『演義』に準拠した様々な作品で登場することから、二人のライバル関係がしばしば強調されます。
しかし、『正史』を見ると太史慈は張遼と戦ったことすらないという事実に拍子抜けさせられます。とはいえ、『演義』はあくまで史実を基にした創作ですので、名将同士の熱戦をドラマチックに描くために、張遼と太史慈を対決させたということなのですね。
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