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正史三国志と三国志演義で異なる張遼と太史慈の関係とは?

2021年8月23日


 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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『正史』の太史慈:そもそも張遼と戦ってすらいなかった!?

正史三国志_書類

 

『正史』の太史慈は、『演義』とは全く異なる描かれ方をしています。『正史』の太史慈は、孫策の死後にあとを継いだ孫権から信任を受け、劉表(りゅうひょう)の支配する荊州(けいしゅう)との国境を守る建昌都尉に任命されます。

 

進軍する兵士c(モブ用)

 

当時の荊州では劉表の従弟である猛将劉磐(りゅうばん)が荊州南部の長沙を守っていたため、これに対応する目的で孫権は猛将の太史慈を配置し、南方の守りを固めさせたと考えられます。

 

憤死する麋竺(モブ)

 

その後、何と建安11年(206年)に太史慈は病死してしまうのです。つまり、合肥の戦いはおろか、赤壁の戦いにすら参加していないのです。

 

呉志(呉書)_書類

 

『呉書』いわく、太史慈は死ぬ間際に「男として生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階を登りたかったものだ」と言い残して死ぬのですが、こうした天下獲りの野望をあらわにする言葉は、母の面倒を見てくれた孔融を助け、劉繇残党を集めて帰順させるという孫策との約束をしっかり守るという義に厚い太史慈像とかけ離れていて、どこか違和感を覚えます。

 

同年小録(書物・書類)

 

ともかく、『正史』の太史慈はそもそも張遼と戦う前に病死していて、合肥の戦いでの両者の激突は、名将同士を戦わせるという『演義』の演出ということなのですね。

 

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三国志平話

 

 

 

三国志ライターAlst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか。張遼と太史慈の対決は『演義』に準拠した様々な作品で登場することから、二人のライバル関係がしばしば強調されます。

 

正史三国志 vs 三国志演義で揉める現代人

 

しかし、『正史』を見ると太史慈は張遼と戦ったことすらないという事実に拍子抜けさせられます。とはいえ、『演義』はあくまで史実を基にした創作ですので、名将同士の熱戦をドラマチックに描くために、張遼と太史慈を対決させたということなのですね。

 

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太史慈

 

 

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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