文聘は、元々荊州の劉表に仕えていた部将です。そのイメージと言えば三国志演義における猛将かも知れません。しかし、文聘はどうやら水軍提督であったようなのです。
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劉表に仕えて後、曹操に降伏
文聘は字を仲業と言い、南陽宛の出身です。劉表の大将となり、曹操に備えていましたが、劉表が死んで後継者の劉琮が侵攻してきた曹操に降伏すると、やや遅れて曹操に降伏しました。
ここで曹操がからかい半分に「随分と遅いではないか?」と尋ねると、荊州を防衛できず、劉琮と劉表に申し訳が立たず曹操に合わせる顔もないので降伏が遅れたと涙ながらに答えたので返って曹操の信任を得ています。
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関羽も孫権も破る文聘
文聘は、曹操が漢水を渡航した時点で降伏したと史書に出ています。曹操は文聘に江夏郡の守備を任せ、その後に起きた樊城の戦いでは関羽の補給部隊を漢津で攻め荊城(襄陽・江陵)で船を焼き払ったと記録されます。
樊城攻めで、関羽は降伏した于禁の兵力数万を食わせる為に補給で苦労していますから時期の前後は不明ですが、補給面で関羽に手痛いダメージを与えたのは間違いなさそうです。
また、文聘は楽進と共に尋口で関羽を討ったという記述も出てきますし、曹丕が即位した後、夏侯尚と組んで江陵を囲み夏口に駐屯したという記述も出てきます。
西暦226年、曹丕の死後、それに乗じて攻め上って来た孫権の大軍5万に対しては、文聘は石陽に籠城して粘り強く耐え、二十日余りで孫権が包囲を解いて退却するとこれを追撃して撃ち破りました。主要な戦いを見ると文聘は負けなしであり、単純に武力が高いというだけではない、指揮や統率力の高さを感じます。
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【中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説】
文聘の戦場は漢水・江水の近く
さて、文聘が活躍した地域を地図で調べてみると、漢水、漢津、夏口、尋口と、全て江水、あるいは漢水の流れに面している場所ばかりである事に気が付きます。
そして、関羽の船を焼いたという記述を見ると文聘は魏の水軍を率いて活躍した水軍提督だったのではないかと思えるのです。その割には船の記述が出てきませんが、江水や漢水は長江に比較して川幅も狭いので、大きな戦闘にならなかったせいかも知れません。
しかし、水軍を自在に操り、北上してくる孫権や関羽を破ったというのは文聘の水戦に対するスキルの高さをうかがわせます。
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江夏太守というポイント
文聘が任命された江夏というのは、長年、孫呉と対立してきた黄祖が基盤にした土地です。江夏は漢水と江水が交わる場所であり、当然のごとく水軍が発展しました。
西暦199年に黄祖は、孫策と事を構えた劉勲の援軍要請に応じて水軍5000と息子の黄射を派遣していて、江夏を守るのには水軍が指揮できないと仕方がない事が分かります。文聘は江夏を数十年も統治し、ある程度安定して治めたとされている事から、しっかりと水軍を使いこなせる名提督だったと考えられるのです。
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文聘の凄さとは?
三国志の時代の水軍は、当然、大砲のような火力装備もありませんし、船が鉄で出来ているわけでもありません。
後世のように艦砲射撃で内陸に大ダメージを与えられるわけでもないので、名前が残るとすれば、水軍同士で派手にぶつかった時だけです。赤壁の戦いは、厳密に言えば水戦ではありませんが魏と呉の船団が衝突したので、扱いが派手になっているわけです。
しかし、それ以外の船の役割は物資や兵員を乗せて移動するだけの地味な活動しかないので、文聘の場合には水戦に恵まれなかった分、名提督の側面が見えづらいと考えられます。
それでも、江夏を統治して何十年、あの関羽や孫権も退けている事を考えると、文聘が巧みに水軍を駆使して自軍が有利になるように采配を振るった事は間違いないでしょう。
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