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文聘は魏の水軍提督?関羽を破ったみごとな水軍指揮の手腕を紹介

2021年9月12日


 

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文聘(騎馬兵)

 

文聘(ぶんぺい)は、元々荊州の劉表に仕えていた部将です。そのイメージと言えば三国志演義における猛将かも知れません。しかし、文聘はどうやら水軍提督であったようなのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉表に仕えて後、曹操に降伏

後継者を決めた劉表

 

文聘は字を仲業(ちゅうぎょう)と言い、南陽宛(なんよう・えん)の出身です。劉表の大将となり、曹操に備えていましたが、劉表が死んで後継者の劉琮(りゅうそう)が侵攻してきた曹操に降伏すると、やや遅れて曹操に降伏しました。

 

 

ここで曹操がからかい半分に「随分(ずいぶん)と遅いではないか?」と尋ねると、荊州を防衛できず、劉琮と劉表に申し訳が立たず曹操に合わせる顔もないので降伏が遅れたと涙ながらに答えたので返って曹操の信任を得ています。

 

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関羽も孫権も破る文聘

青龍偃月刀を持つ関羽

 

文聘は、曹操が漢水を渡航した時点で降伏したと史書に出ています。曹操は文聘に江夏郡の守備を任せ、その後に起きた樊城の戦いでは関羽の補給部隊を漢津で攻め荊城(けいじょう)襄陽(じょうよう)江陵(こうりょう))で船を焼き払ったと記録されます。

 

関羽に降伏する于禁

 

樊城攻めで、関羽は降伏した于禁の兵力数万を食わせる為に補給で苦労していますから時期の前後は不明ですが、補給面で関羽に手痛いダメージを与えたのは間違いなさそうです。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)書類

 

また、文聘は楽進と共に尋口(じんこう)で関羽を討ったという記述も出てきますし、曹丕が即位した後、夏侯尚(かこうしょう)と組んで江陵を囲み夏口に駐屯したという記述も出てきます。

痛い目にあう孫権

 

西暦226年、曹丕の死後、それに乗じて攻め上って来た孫権の大軍5万に対しては、文聘は石陽に籠城して粘り強く耐え、二十日余りで孫権が包囲を解いて退却するとこれを追撃して撃ち破りました。主要な戦いを見ると文聘は負けなしであり、単純に武力が高いというだけではない、指揮や統率力の高さを感じます。

 

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文聘の戦場は漢水・江水の近く

 

さて、文聘が活躍した地域を地図で調べてみると、漢水(かんすい)漢津(かんしん)夏口(かこう)尋口(じんこう)と、全て江水、あるいは漢水の流れに面している場所ばかりである事に気が付きます。

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍船

 

そして、関羽の船を焼いたという記述を見ると文聘は魏の水軍を率いて活躍した水軍提督だったのではないかと思えるのです。その割には船の記述が出てきませんが、江水や漢水は長江に比較して川幅も狭いので、大きな戦闘にならなかったせいかも知れません。

 

三国時代の船 楼船

 

しかし、水軍を自在に操り、北上してくる孫権や関羽を破ったというのは文聘の水戦に対するスキルの高さをうかがわせます。

 

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江夏太守というポイント

黄祖

 

文聘が任命された江夏というのは、長年、孫呉と対立してきた黄祖が基盤にした土地です。江夏は漢水と江水が交わる場所であり、当然のごとく水軍が発展しました。

 

三国時代の船 蒙衝

 

西暦199年に黄祖は、孫策と事を構えた劉勲の援軍要請に応じて水軍5000と息子の黄射(こうしゃ)を派遣していて、江夏を守るのには水軍が指揮できないと仕方がない事が分かります。文聘は江夏を数十年も統治し、ある程度安定して治めたとされている事から、しっかりと水軍を使いこなせる名提督だったと考えられるのです。

 

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文聘の凄さとは?

文聘

 

三国志の時代の水軍は、当然、大砲のような火力装備もありませんし、船が鉄で出来ているわけでもありません。

 

後世のように艦砲射撃で内陸に大ダメージを与えられるわけでもないので、名前が残るとすれば、水軍同士で派手にぶつかった時だけです。赤壁の戦いは、厳密に言えば水戦ではありませんが魏と呉の船団が衝突したので、扱いが派手になっているわけです。

 

しかし、それ以外の船の役割は物資や兵員を乗せて移動するだけの地味な活動しかないので、文聘の場合には水戦に恵まれなかった分、名提督の側面が見えづらいと考えられます。

 

それでも、江夏を統治して何十年、あの関羽や孫権も退けている事を考えると、文聘が巧みに水軍を駆使して自軍が有利になるように采配を振るった事は間違いないでしょう。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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