ロスト蜀漢、しかし生き残って晋で昇進した蜀臣4名を一気に紹介


 

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劉禅

 

西暦263年、蜀漢(しょくかん)は滅亡しました。それだけに蜀の末期にはポンコツ武将しかいなかったのではないか?というイメージです。

 

炎上する城a(モブ)

 

しかし、国が滅ぶのは有能な人材がいないからではなく有能な人材が推挙されない為であり、蜀漢滅亡後、蜀の遺臣の中には晋で出世した人が多くいます。今回は悪政にはじかれ蜀漢で活躍の場を得れなかった人材を紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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九卿にまで昇進 文立

王戎

 

文立(ぶんりつ)は字を広休(こうきゅう)と言い、巴郡臨江県(はぐんりんこうけん)に誕生しました。若い頃に蜀漢の太学(たいがく)で毛詩と三礼を学び、礁周(しゅうしょう)に師事します。費禕(ひい)が大将軍になると東曹掾(とうそうえん)として仕えました。

 

蜀漢が滅びると茂才(ぼうさい)で推挙されて郎中(ろうちゅう)になり、司馬炎が晋を立てると、高く評価され太子中庶子(たいしちゅうしょし)散騎常侍(さんきじょうじ)を歴任。さらに、文立は司馬炎に上奏し、旧蜀漢の高官、諸葛亮の子孫を取り立てて蜀の民心を安定させ、呉の分裂を図って制圧すべしと進言します。

 

晋王朝を作った司馬炎

 

司馬炎は、この進言を採用し、諸葛亮の孫の諸葛京(しょかつけい)に官職を授けよと詔を下しました。司馬炎統治の西暦270年代には九卿(きゅうきょう)の1つの衛尉(えいい)に昇進し、朝廷の臣の評判も良く、その時代の名卿とされます。

 

老年になったので、帰郷して畑仕事をしたいと司馬炎に願い出ますが受理されず咸寧年間(かんぽうねんかん)の末(275~280年)に死去しました。彼は晋書の儒林伝(じゅりんでん)に列伝されているので、亡国の臣としては、非常な出世をしたと言えるでしょう。

 

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呉の交州を制圧 霍弋

 

霍弋(かくよく)は字を紹先(しょうせん)と言い、荊州南郡の人、父は霍俊(かくしゅん)で劉備の入蜀に従い蜀漢に仕えました。諸葛亮に才能を認められた霍弋は、若い頃には諸葛亮の養子である諸葛喬と見聞を広めるために旅をしています。

 

諸葛喬

 

孔明死後に黄門侍郎(こうもんじろう)となり、皇太子の劉璿(りゅうせん)の補佐役を勤め、その後、永昌の獠族(りょうぞく)が反乱を起こすと霍弋は永昌太守に就任し一軍を率いて討伐に向かいます。首尾よく獠族の反乱を鎮圧すると、その功績で監軍・翊軍(よくぐん)将軍・建寧(けんねい)太守となり、益州南部の軍政を統括しました。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

西暦263年に魏軍が漢中に侵攻すると霍弋は、駆け付けようとしますが劉禅は備え十分として許可しませんでした。蜀漢が滅亡すると、西晋に仕え司馬昭にもその能力を認められ信任を受け、羅憲(らけん)と共に呉との国境を守り、南蛮の平定に尽力します。

 

羅憲

 

264年に交阯郡(こうしぐん)で郡吏の呂興(りょこう)が呉に反乱を起こし、晋に帰順しようと霍弋を頼ると霍弋は呂興を救援すべきだと洛陽に上表文を送り出兵。呂興は救援が到着する前に部下に殺害されますが、朝廷は、霍弋に節を与え交州刺史として官吏の任用を便宜させる事にします。

 

霍弋は、牙門将(がもんしょう)楊稷(ようしょく)らを遣わして交州・広州を奪う計略を巡らせ、楊稷に毛炅(もうけい)董元(とうげん)孟幹(もうかん)孟通(もうつう)らを付けて水陸二路から進軍させ呉軍を破り大都督修則(しゅうそく)、交州刺史劉俊(りゅうしゅん)の首を斬りました。

 

逃亡する兵士 三国志ver

 

その後に呉は虞汜(ぐし)薛珝(せつく)陶璜(とうこう)を派遣して楊稷を防がせ分水で戦うものの陶璜は敗走して合浦(がっぽ)に籠城し配下の将軍二人を失います。こうして霍弋の采配により交州は平定。晋は霍弋の功績を讃え列侯に封じました。

 

規模の小さい戦いではありますが、見事な手腕で交州を奪取した霍弋は名将と言えるでしょう。もし劉禅が霍弋の従軍を承認していたら、蜀はもう少し鄧艾に対して奮戦したかも知れません。

 

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呉の武将

 

父娘2代で蜀の異民族反乱を鎮圧 李毅

藺相如(りんしょうじょ)

 

李毅(りき)は字を允剛と言い蜀の広漢郡郪県(しけん)の人です。父は蜀漢の別駕従事李旦(べつがじゅうじ・りたん)、祖父は劉備が漢中王に即位した時に上奏文を書いた李朝(りちょう)です。李毅は若い頃は不良でしたが、20歳を過ぎた頃に通詩と礼訓を学びました。

 

ある時、益州刺史の皇甫晏(こうほあん)が益州牙門の張弘に私怨で殺され、「反逆を起こしたので誅殺した」と濡れ衣を着せられて、首を洛陽に送られると言う事件が起きます。

洛陽城

 

この時、李毅は「事件を曖昧(あいまい)で終わらせてはならぬ」と新任の益州刺史王濬(おうしゅん)に説き、張弘を討伐して道理を(ただ)すように進言しました。その頃、益州主簿の何攀(かはん)が皇甫晏の無実を証明した事もあり、李毅は王濬に従って張弘を斬ります。

 

王濬は、筋を通した李毅を秀才に挙げ州の主簿別駕に取り立てました。李毅は、同じく蜀の何攀と共に呉攻略の際に王濬の参軍を務めて功績を挙げ、関内侯、隴西護軍(ろうせいごぐん)に昇進。その後繁県(はん)県令、雲南郡太守を務めます。

 

司馬炎に臆さず意見を言う司馬冏は斉王となる

 

西暦285年に王濬が亡くなると司馬炎は王濬の功績には李毅のアシストがあったとして、持節、南夷校尉とし犍為の反乱に対応させました。李毅は叛徒数万を破り、寧州刺史、龍驤(りゅうじょう)将軍、成都県侯に昇進します。

 

三国志のモブ 反乱

 

李特(りとく)が益州で反乱を起こすと李毅は益州刺史の羅尚(らしょう)を助けて戦い李特は敗死させますが、子の李雄が後を継ぎ益州での叛乱はむしろ拡大しました。結局、李毅が守る寧州城は五苓夷(ごれいい)の包囲を受け、李毅は洛陽に救援を求めますが洛陽は、西暦291年以来、八王の乱でグチャグチャ、とても援軍は出せません。

 

李毅は、籠城戦の中で疫病にかかり亡くなりました。しかし、彼には李秀という15歳の娘がいて人望を得ていたので、城中は彼女を総司令官に推挙します。

 

王異

 

李秀は困難と食糧不足に耐え抜き、五苓夷の包囲に気の緩みが出たのを見抜いて、自ら鎧をつけて決死隊と出撃敵の食糧と物資を奪って帰還し、城内の食糧不足を解消して士気を高め、五苓夷は包囲を解いて退却したそうです。父子2代に渡り武勇を示した李毅と李秀は、蜀漢が残っていれば晋に対し、かなりの武勇を示したかも知れません。

 

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司空裴秀に才能を認められる 何攀

 

何攀(かはん)は字を恵興(けいこう)と言い、蜀郡()県の人で何包(かほう)という人の子です。兄弟は5名で弟の何逢を含めて皆名高い人物で特に何攀は容姿が美しかったようです。

 

何攀は蜀漢の末期に州郡に仕え、20歳にならない時に蜀の滅亡を迎えました。その後西晋に仕え、益州刺史の皇甫妟(こうほあん)は何攀を王佐の才があると取り立て主簿に任じます。

 

西暦273年、皇甫妟は牙門将の張弘に謀反したと濡れ衣を着せられて殺害されました。その頃、何攀は母の喪中で官を辞していましたが、恩義に報いる為梁州まで赴いて皇甫妟の無実を上奏します。

 

王濬(おうしゅん)

 

同じ頃、李毅が新しい益州砂史の王濬に皇甫妟の無実を証明し、張弘を殺害していました。一連の義侠心から何攀は、李毅同様に王濬に目を掛けられ、王濬が呉討伐軍を率いると参軍として様々に献策し呉が平定されると関内侯に封じられました。

 

この事から、時の司空裴秀は何攀の才能を認めて娘を与えています。

 

裴松之(歴史作家)

 

その後、西晋では、司馬炎の外戚、太傅楊駿(たいふようしゅん)が政権を握り、親族や取り巻きを取り立てて褒賞をばらまき恩着せがましい態度を取るようになります。何攀はこれを間違ったことだと考え、石崇とともに弾劾奏上しますが、恵帝は聞き入れませんでした。

 

司馬炎の遺言を改ざんする楊駿

 

恵帝が楊駿を討伐したとき何攀は楊駿に招かれ屋敷内にいましたが、楊駿の一味が大騒ぎしている隙に垣根を飛びこえて逃げ、恵帝の下に参じると帝は何攀を翊軍校尉(よくぐんこうい)に任じて熊渠兵を授けました。何攀は一戦交えただけで楊駿を斬り捨てる事に成功します。

 

※晋書、楊俊伝では、楊俊は馬小屋に逃げ込みそこで斬られたとだけあり、何攀が斬殺したという記述ではありません。

 

291年、何攀は楊駿誅伐の功績で西城公一万戸に封ぜられ、絹一万匹を賜り、兄弟も引き立てを受けますが何攀は封戸と絹の半分を固く辞退し、それ以外も内外の親戚に分け与え、ほとんど自分では取りませんでした。

 

その後、何攀は河南尹(かなんいん)、揚州刺史と要職を歴任して大司農まで昇進します。

 

291年、八王の乱が起こると、何攀は政治の混乱を恐れて隠遁していましたが再度中央に召還され、三公に立てようという協議中に死去します。死後には、司空の印綬を追贈され桓公の諡号を受けました。

 

何攀は亡国の蜀の遺臣として晋の役人に差別されましたが、その差別を常に高い識見で覆し、西晋の役人は態度を改めて、何攀を尊敬したそうです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は亡国の蜀漢に仕え、その後、晋王朝で大出世した人々を紹介しました。こうしてみると、蜀漢には人材が皆無という事はなく、もし鄧艾の攻撃を退けていれば、また違った展開もあったかもと思ってしまいますね。

 

皆さんは、どう感じましたか?

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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