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劉禅の残念な逸話5:「ここは楽しいです」
劉禅は魏に降伏したのち、魏の首都の「洛陽」に移送されました。その時に宴会に招かれたときにエピソード(正史三国志の注より)がものすごく有名です。
宴会の席で蜀の音楽が流れます。蜀の旧臣たちは涙を流しそれを聞いていたのですが、劉禅は笑って楽しんでいるようでした。これを見た魏の権力者「司馬昭」は「どうですか、蜀を思い出すことはありますか。」と、劉禅に尋ねます。
劉禅は「いいえ、ここは楽しく、蜀を思い出すことはありませんよ。」と答え、周囲の蜀の旧臣を唖然とさせたといいます。慌てた劉禅の側近が「そのような質問をされたら、『国を思って悲しまない日はありません。』と答えてください。」とアドバイス。
もう一度司馬昭が同じ質問をすると劉禅は「国を思って悲しまない日はありません。」このエピソードから中国では無能な人物の事を「どうしようもない阿斗(劉禅の幼名)」と言うそうです。
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劉禅の残念な逸話6:自身の後継者でもめる
劉禅はのちに「安楽県」というところで「安楽公」として一領主として暮らすことになりました。長男に先立たれていた劉禅は後継ぎを決める必要がありましたが、何故か二男を差し置いて六男を寵愛し、側近に諫言されています。が、結局六男が跡を継ぐことになりました。その六男は後継ぎにふさわしくない人物だったらしく、「道義を失うふるまい」(具体的には不明)をしていたといいます。
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三国志ライターみうらの独り言
劉禅は悪逆非道なふるまいをしてしまったことはないので、根は良い人だったのかもしれません。ただ、リーダーとしては不足だったのでしょうね。補佐する人材の重要さを痛感させられますね。
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