「泣く子も黙る」ということわざはどうやった生まれたの?張遼の評価に迫る


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

敵を相手にして奮闘する張遼

 

曹操(そうそう)曹丕(そうひ)に仕えた武将・張遼(ちょうりょう)合肥ごうひ)の戦いの圧倒的な活躍から、魏軍最強の呼び声も高い張遼ですが、魏を悪役とする『三国志演義』ではどうしても存在感が薄くなってしまいがちです。

 

泣く子も張遼

 

しかし、『三国志演義』が書かれるよりも前の時代、張遼はどのように評価されていたのでしょうか。今回はそんな張遼の評価について迫っていきたいと思います。

 

 

魏の時代の評価

裏切った呂布

 

張遼は元々呂布(りょふ)と同じ并州(へいしゅう)出身の武将であり、丁原・(ていげん)董卓(とうたく)・呂布と主を転々としたのち、呂布が曹操に敗れると曹操に仕えることになります。そして、曹操のもとで張遼はその武名を一気に高めることになります。

 

張遼の猛攻に泣きながら逃げる孫権

 

張遼は曹操の家臣として、呉との前線地帯である合肥を守り、わずかな兵で合肥に攻め寄せる呉の大軍を破った合肥の戦いはあまりにも有名です。その後、曹操の死後には曹丕に仕え、二代にわたって魏の重臣として大きな功績を挙げました。

 

張遼の武勇は、張遼の死後間もない時期には既に高く評価されていました。243年(正始(せいし)4年)に魏の皇帝・曹芳(そうほう)が、先祖である曹操の廟に建国の功臣たちを祀ったことがありました。この時、張遼も功臣の一人として祀られています。

 

魏の夏侯淵

 

他に祀られたのは、夏侯淵(かこうえん)曹洪(そうこう)典韋(てんい)楽進(がくしん)李典(りてん)といったそうそうたる面々です。その中に張遼が含まれているということは、魏の人々から張遼は建国を支えた伝説的な武将としてあがめられていたことを示すのではないでしょうか。

 

関連記事:夏侯淵とはどんな人?猛将の裏の顔は補給の達人

関連記事:夏侯淵が定軍山で戦死した原因は兵力不足だった?

 

呂布対項羽

 

 

 

唐の時代の評価:武廟六十四将

 

三国時代から数百年後の唐の時代、皇帝たちはしばしば、かつての名将たちを祀る廟を建立しました。唐の皇帝・粛宗(しゅくそう)は古の伝説的な軍師である太公望に武成王(ぶせいおう)の称号を与えて祀り、これに次ぐ過去の名将たちを武廟十哲(ぶびょうじってつ)として合祀しました。

 

そして、782年(建中(けんちゅう)3年)には忠臣として名高い顔真卿(がしんけい)の献策により、唐の皇帝・徳宗が古今東西の名将六十四名を選出し、武廟十哲とともに祀りました。

 

そこで、各時代・各王朝を代表する名将中の名将たちが選抜されました。このうち、三国時代からは8名が選ばれました。

 

関羽の青銅像

 

その顔触れは、蜀の関羽(かんう)張飛(ちょうひ)、呉の周瑜(しゅうゆ)呂蒙(りょもう)陸遜(りくそん)陸抗(りくこう)、そして魏の鄧艾(とうがい)と張遼でした。つまり、張遼が並み居る魏の名将・猛将・智将たちを押さえて武廟六十四将に選ばれるという栄誉を手にしているのです。これはやはり、唐の時代においても張遼という武将が特に高い評価を受けていたことを示すものではないでしょうか。

 

関連記事:張遼の魅力とは?古代中国の歴史家からの高い評価を得た理由

関連記事:なぜ関羽は祀られるようになったの?初期の関羽信仰から神様になった経緯

 

関帝廟

 

 

「張遼止啼」:泣く子も黙る張遼

同年小録(書物・書類)

 

先程登場した「武廟六十四将」ですが、これは唐の皇帝が選ばせたもので、いわば政府公式の顕彰と言えます。では一方で、民間では張遼はどのように評価されていたのでしょうか。それを示す史料の一つが、唐の時代に書かれたとされる『蒙求(もうぎゅう)』です。

 

『蒙求』は、8世紀頃に李瀚(りかん)なる人物が著したとされていますが、詳しいことは分かっていません。この作品は、古今東西の故事や歴史を四字句で書き連ねていくという特殊な形の作品です。

 

『蒙求』はわずか596句2384字という短い作品ですが、漢文と故事・歴史を同時に学ぶことができるとして、中国のみならず、日本の平安時代においても貴族の子供向けの教材として長い間用いられてきました。

 

そんな『蒙求』には多くの故事成語が収録されています。例えば、「蛍雪(けいせつ)の功」や夏目漱石のペンネームの下となった「石に漱ぎ(くちすすぎ)流れに(まくら)す」といった有名な成語などが『蒙求』にことがわかりますね。見られます。

 

『蒙求』の中には、「張遼止啼」というフレーズがあります。これは文字通り、張遼が子供の泣くのを泣き止ませるということです。

 

張遼が夜泣き対策となった赤ちゃん

 

これは、合肥の戦いで鬼神のごとき大暴れをした張遼を呉の人々が恐れ、呉では泣き止まない赤子に「遼来遼来」(張遼が来るぞ)と呼びかけると、泣く子も泣き止んだという故事から来ています。

 

ここから、威力や勢力のあることの例えである「泣く子も黙る」ということわざができたと言われています。つまり、張遼の強さは非常に有名で、庶民のことわざになるほどよく知られていたのですね。

 

関連記事:曹仁の武勇は張遼をも凌ぐ!曹魏の一族に迫る

関連記事:戦下手な皇帝 曹丕を支えた張遼、凡庸な皇帝との絶妙な関係性に迫る

 

はじめての三国志Youtubeチャンネル2

 

 

三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか。明代に『三国志演義』が書かれて以降、魏の武将たちは悪役とされることが多く、張遼もそのあおりを受けて存在感が薄くなってしまっている印象があります。しかし、『三国志演義』以前の伝承などを見ると、張遼という人物が三国時代屈指の名将として人々から親しまれていたことがわかりますね。

 

関連記事:張遼の死因とは?三国志演義と正史で食い違うその記述

関連記事:楽進と張遼の関係とは?実は不仲だった二人の関係性【入門者向け】

 

張遼

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
Alst49

Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

-張遼
-