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その後の費禕は蜀を安定させるが
諸葛亮亡き後、蔣琬が後を継ぎ、彼が病死した後は費禕が蜀の国政を担うことになります。費禕は守りの姿勢に徹し、変な人物に影響されがちな君主劉禅も制御できていました。
蜀は安定していましたが、武将「姜維」は諸葛亮の念願を果たそうと、大規模な北伐を計画しました。
しかし費禕は「われらの才能は丞相(諸葛亮)に遠く及ばない。なのに、北伐を成功させることができるだろうか? 今は国を守り、討って出るのは有能な人物の出現を待とう」と、姜維にわずかな兵士か与えませんでした。
しかし費禕は魏から降伏してきた武将に宴会の席で刺殺されてしまいます。その後姜維が国政を握りますが、連年の出兵で国力を疲弊させ、結局は蜀は滅亡してしまいます。
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大きな功績をあげ、諸葛恪は大将軍となるが
諸葛恪は軍人としても異民族討伐や、魏との戦いで功績をあげ、「大将軍」まで出世しました。孫権の死後は後を継いだ「孫亮」の下で関税の廃止などをおこない、民衆の支持も得ました。
また、「東興の戦い」で数万の魏軍を討ち、軍人全般を率いることになります。しかし、先の戦いの大勝に乗じて周囲の反対を押し切り魏に侵攻すると、逆に大敗。
一気に信頼を失います。もともと人望がなかった諸葛恪は恨まれており、最後はクーデターによって殺されてしまいます。
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三国志ライターみうらの独り言
費禕と諸葛恪の舌戦はその緊張感が容易に想像できますね。当時の外交はまさに命がけだったことがよくわかるエピソードです。費禕は運の悪さ、諸葛恪の性格で二人とも才能を発揮しきれなかったことが悔やまれますね。
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