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息子の「典満」とは?
武勇で知られた典韋でしたが、その息子「典満」はどのような人物だったのでしょうか。典満の生まれた年はわかりませんが、典韋がなくなったときはまだかなり若かった(もしくは幼かった)と考えられます。
父の死後は曹操に「郎中」(護衛)に任じられ、曹操の近くで仕えます。その後は「司馬」(祭祀や軍事を担当)になっています。
曹操の死後は曹丕によって「都尉」に昇進していることから、無能な2世ではないかもしれません。ただ、かれの業績はつたわっていません。
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多くの武将を見出した夏侯惇
典韋を見出した夏侯惇ですが、ほかにも有能な人物を登用しています。代表的な人物には「韓浩」がいます。
彼は曹操に屯田を提唱するなどの内政面、張魯との戦いなどの軍事でも活躍しました。夏侯惇は気難しい「田疇」とも友人だったと伝わっており、幅広い人脈を持っていた武将なのでしょう。
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三国志ライターみうらの独り言
正史「三国志」での典韋の活躍は鬼気迫るもので、よほど当時の世の中に浸透していた出来事だったことがうかがえますね。死に際に名を高めたことは武将としてはかなり光栄だったのではないでしょうか。
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