もし袁紹が曹操よりも先に献帝を保護していたらどうなっていたか?袁紹の亡霊と一緒に考えてみましょう!

2022年1月19日


 

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亡くなる袁紹

 

「ああ、惜しいことをした」

夜中のあなたの部屋で、ふとそんな不気味な声が響いてくる。

なんだと思って布団から半身を起こすと、そこに立って嘆いているのは、なんと三国志の群雄の一人、袁紹(えんしょう)の亡霊!

・・・と仮定してみましょう。

 

何が惜しかったのか?

そう、あなたが聞いてみたとします。

 

袁紹

 

袁紹の亡霊はそれに応えて曰く、「いや、わしが曹操(そうそう)に負けた理由を二千年ほど考え続けてきたのだが、どう考えても、曹操よりもわしの方が家柄は上。政治家としての実績も上だ。

 

献帝を保護する曹操

 

そんなわしが曹操に敗れた理由は、都から献帝(けんてい)が脱出した際のことだ。曹操が帝を保護して担ぎ上げたが、わしはそれに出遅れてしまった。わしと曹操との違いは、これだけのように思うのだ」

 

いろいろ言いたいこともある気持ちを抑えてあなたが辛抱強く話を聞いていると、袁紹の亡霊はさらにこんなことを語り始めました。

 

献帝

 

「ところが、実はあの時、都を脱出した帝は、曹操のところではなく、わしのところに逃げ込んでくるというハナシもあったのだ。あれを受け入れておけば、わしが曹操などに負けるはずはなかったのだ。いやはや、ああ、惜しいことをした」

 

その袁紹の亡霊の嘆き、あなたはどう受け止めるでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実際に献帝の逃げ先候補のひとつは袁紹のところだった!?

李傕・郭汜祭り

 

その前に、事実関係を確認しておきましょう。董卓(とうたく)の死後、李傕(りかく)郭汜
(かくし)
というどうしようもない連中に囲われていた状況から、側近を連れた献帝がなんとか脱出したということは事実。

 

献帝を傀儡化する曹操

 

それを曹操が軍を出して迎え、保護したことも事実。その後の曹操が何かと「献帝を保護している」という事実を掲げて、さんざん帝の権威を利用して成功したことも事実です。そしてもうひとつ、献帝が都から脱出したときに、保護者の候補として袁紹の名前が最初は上がっていたことも事実のようなのです!

 

これだけ見れば、袁紹の亡霊が「ああ、惜しいことをした」とボヤくのも説得力があるように見えるかもしれません。

 

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【奇想天外な夢の共演が実現 はじめての架空戦記

架空戦記

 

 

 

どうして袁紹は献帝を迎え入れるチャンスを逃したの?

李カク(李傕)、献帝

 

ただし注意しなければならないことがあります。この献帝からの「保護」の申し入れを断ったのは、他でもない、袁紹自身なのです。どうしてこんなチャンスをみすみす逃したのか?

 

諸説ありますが、部下に「献帝を迎え入れてしまうと、袁紹様の権威が下がってしまい、何かと不自由になるから」と進言されたことが理由の一つと言われています。

 

献帝

 

後に曹操にさんざん利用されて捨てられることになる献帝に、既にそんな強力な権力は残っていなかったはずなのですが、それを指して「あの人がわしのところに来るといろいろ言うことをきかなくちゃいけなくなるから困るな」と警戒するとは、なんという肝の小さいこと!?

 

などと、目の前にいる袁紹の亡霊に露骨に言うわけにもいかないので、もう少し袁紹の言い分を聞いてみましょう。

 

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民間伝承の三国志

 

 

もともと人間関係として献帝と袁紹の仲は微妙だった?

北方謙三風ハードボイルドな袁紹

 

「いや、実はあのとき、わしは献帝を掲げるわけにもいかなかったのだ」袁紹の亡霊はそう言うかもしれません。確かに、董卓が乗り込んでくる前の洛陽(らくよう)での権力闘争において、実は袁紹は献帝の兄である少帝(しょうてい)を支援していた派閥の重鎮なのです。

 

過去の経緯から、どうにも献帝といまさら「組む」というのは気が引けた、ということかもしれません。ともあれ、過去の経緯を差し引いても、どう見ても「袁紹がエイヤと決断していれば決まったハナシ」には見えてしまいます。やはり袁紹が優柔不断なうちに曹操に先を越された、というのが実情に近いような。

 

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袁術くんの成長日記

 

 

まとめ:これを言ってはおしまいながら「献帝さえいれば曹操に勝てた」のか?

袁紹

 

しかし、それよりも何よりも、袁紹の亡霊を前にしたあなたは、ここでどうしても言いたいことが出てくるのではないでしょうか?

 

「たとえ献帝を保護していたところで、あなた、それだけで曹操に勝てたのでしょうか?」と。

 

袁術

 

というのも、時の後漢朝廷の権威を借りるというなら、袁紹の親戚の袁術(えんじゅつ)もさんざんやっていたことだからです。袁術の場合は玉璽(ぎょくじ)を手に入れて調子に乗り、皇帝を僭称(せんしょう)しただけで他に特に何もせず、割拠(かっきょ)した英雄たちの格好のエジキとなって、ボコボコにされて滅亡しました。袁紹が献帝を奉じたところで、その献帝をまさに奪いたいと、曹操にゴリゴリに攻められ、結局は袁家は滅ぶ運命だったようにも見えます。

 

つまりヒトコトにまとめると、「時の帝を掲げたところで、あなたの親戚の袁術の末路と同じようなことになるのでは?」とツッコミたくて仕方なくなるはず。

 

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袁術祭り

 

 

三国志ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

さて、それを、プライドの高そうな袁紹の亡霊にズバリ、ツッコミを入れてみますか?

それとも適当に話を合わせ慰めて、さっさとどこかに消えてもらいますか?

 

どちらを選ぶかは、あなた次第!

 

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YASHIRO

とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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