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トカラ馬
トカラ馬は鹿児島県の南海上に位置するトカラ列島に生息する日本在来馬です。元々、トカラ列島や奄美諸島には九州から輸入された日本在来馬が生息していましたが、奄美諸島では明治時代以降、洋種馬の雑種化が進み、日本在来馬は絶滅しました。しかし、1952年にトカラ列島の宝島で日本在来馬のトカラ馬が生き残っていたことが確認されます。
とはいえ、戦後の自動車の普及によりトカラ馬の需要はすでになく、トカラ馬はいつ絶滅してもおかしくない状況でした。そこで、1960年代にトカラ馬のほとんどは鹿児島県本渡に移され、繁殖と保護が行われることとなります。1974年にはトカラ馬がトカラ列島に戻され、現在ではトカラ列島の中之島でトカラ馬が放牧されています。
現在、トカラ馬の数は100頭を超えており、その繁殖と保全が維持されている状況です。トカラ馬は鹿児島県平川動物公園のほか、上野動物園でも飼育されており、貴重な日本在来馬として手厚い保護を受けているのです。
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宮古馬
宮古馬は沖縄県の宮古島に生息する日本在来馬です。体高はおよそ120cmと非常に小ぶりなのが特徴です。宮古馬は宮古島という離島に生息していることから、ほかの種との交配がほとんど行われておらず、古くからの日本在来馬の特徴をよく残していると言われています。
かつての琉球王国の時代より、牧草地に富む宮古島は馬の飼育が盛んであり、宮古馬は琉球王国の重要な輸出品として位置づけられていました。また、琉球王国時代より長い伝統を持つ琉球競馬の馬も、その多くが宮古馬であったと言われています。
宮古島は琉球王国時代から馬産の中心地であり、太平洋戦争期にも沖縄本島と異なりほとんど戦闘が行われなかったため、宮古島の馬産は第二次世界大戦後も続きます。しかし、農耕馬の需要減少によって宮古馬の頭数も激減し、1978年にはわずか7頭にまで減少します。
その後の自治体による粘り強い保護活動により、現在では40頭ほどにまで回復しています。とはいえ、対州馬と同様に宮古馬は日本在来馬の中でも頭数が特に少なく、いまなお絶滅の危機に瀕している状況は変わりありません。
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与那国馬
与那国馬は沖縄県の与那国島に生息する日本在来馬です。与那国馬は、日本最南端の日本在来馬としても知られています。南西諸島のうち、沖縄本島からも遠く離れた八重山諸島に位置する与那国島で独自の馬産が行われ、体高訳110~120cmと小型な与那国馬が育まれてきました。
与那国島は馬産が行われている他の地域とかなり離れているため、与那国馬は洋種馬をはじめとする他の血統との交雑が行われず、古くから続く独自の血統が維持されていたといわれています。与那国馬は古くより、島の交通手段として重宝されてきましたが、戦後になって需要が激減し、一時は頭数が減って絶滅しかけますが、1996年に天然記念物に指定されると保護の対象となり、現在では保護の甲斐あって130頭ほどまで頭数が回復しています。
与那国馬は日本最南端の在来馬ということもあり、与那国島以外にも日本各地の動物園や牧場で飼育されています。現在では、上野動物園をはじめとして日本各地の動物園で与那国馬を目にすることができます。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。我々がよく目にするサラブレッドなどの洋種馬と異なり、我が国日本でも、独自の血統を受け継ぐ日本在来馬が息づいています。
こうした日本在来馬は日本の環境に適応した、日本ならではの発展を遂げた馬であり、日本の自然遺産として保護していなかなければいけない存在です。この記事を読み通した読者の皆様が、日本在来馬の存在を知り、その素晴らしさや保護の重要性を改めて認識して頂ければ幸いです。
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