今回は、玄奘と日本との結びつきについて解説していきます。どうぞお楽しみください。
日本では、『西遊記』に登場する「三蔵法師」のモデルになった人物ということで、玄奘のことを知る人が多いという印象ですが、調べてみますと、玄奘が生きていた時代から、日本との結びつきが強かったことが分かってきました。
詳しく見ていきましょう。
玄奘が日本に「禅」を伝えた?
前回の記事では、『般若波羅蜜多心経(般若心経)』の漢訳版は玄奘が成し遂げたと説明しました。般若心経と言えば、禅寺で座禅などを組むとき、その前後に唱えられることが多い印象です。さらに、玄奘のことを調べると、玄奘に「禅」を学ぶといった文言が目につくのです。
ということは、日本の禅の教えは、玄奘が伝えたと言えるのか?という疑問が湧いてきます。
しかし、日本の禅と言えば、鎌倉時代に中国大陸(当時は、宋王朝【南宋】の時代)に渡った二人の僧侶(つまり、「栄西」と「道元」)によって始まったと学校の歴史の授業でも教わることが多いでしょう。
栄西は「臨済宗」という宗派で、道元は「曹洞宗」という宗派です。現在の日本でも、この二つの宗派が、禅の宗派として有名です。これはどういうことでしょうか?
実は、禅の教えの根本は、飛鳥・奈良時代の玄奘が生きていた頃には伝わっていたというのです。しかも、玄奘が一役買っていたというのです。
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時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記」
玄奘に日本人の弟子がいた
詳しく説明しましょう。
まず、玄奘には、日本人の弟子がいました。「道昭」という名の弟子です。この道昭についてですが、653年に遣唐使と共に中国大陸に渡り、唐王朝が治める長安に滞在し(約8年間)、玄奘に師事した人物です。しかも玄奘に気に入られ、寝食も共にしたというのです。
日本へ戻ってからは、奈良の「法興寺」(現在は、「飛鳥寺」と呼ばれています。)に住み、玄奘からの教えを伝道するため、門徒たちに教授したり、各地を巡り、井戸を掘り、橋をかけるなどの「利他行」と言われる善行を行ったと伝わっています。
ただ、当時の政府(大和朝廷)の方針として、僧侶は寺院にて定住すべしというものだっため、活発に地方を巡るなどの活動は出来なかったようです。そして、道昭が中国より持ち帰り伝えたのが「法相宗」という宗派なのです。
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「法相宗」について解説!
ここで法相宗という宗派が出てきました。
聞き慣れない人もいるかと思います。日本で奈良時代には、「南都六宗」という宗派が成立したと言われています。その中に法相宗が含まれていて、日本最古の仏教宗派と伝えられています。
この法相宗ですが、中国発祥の宗派で、玄奘の愛弟子にあたる、慈恩大師【窺基とも呼ばれる】が開祖と呼ばれています。
これは、元々、インド・ネパール近郊で、4世紀?5世紀にかけてに登場した「唯識学派(ヴィジュニャーナヴァーダー 【サンスクリット語】)」とも呼ばれていた大乗仏教の宗派です。
その宗派の寺院で玄奘が学び、主要経典を玄奘が中国へ持ち帰り、玄奘が中心となり漢訳化されます。例えば、『成唯識論』や『仏地経』というものがあります。以降、それらの経典を探究する、唯識学の一つの宗派として、窺基が始めた「法相宗」があるのです。
法相宗を含めて、唯識学派の特徴としては、仏陀が説かれた経典を忠実に読解し、探求しようとする面があります。仏像を拝むこと、お経を唱えることや、座禅や清掃などの修行するといった「宗教」や「道」の面よりも、「学問」や「哲学」的な意味合いが強い宗派(学派)と言えましょうか。
そうすると、以下のように考えられるでしょうか?
「禅」で学ぶ、根本的な教えは、玄奘が漢訳した経典という教科書(テキスト)があり、後の鎌倉時代から始まった、臨済宗や曹洞宗では、座禅などの「修行」の要素が付け加えられたと。玄奘や法相宗が、禅の元祖の立ち位置にいるのも頷けます。
そして、日本での法相宗の大本山として、奈良の「興福寺」や「薬師寺」があります。また、「法隆寺」も、その大本山の一つでしたが、今は「聖徳宗」の総本山として独立しています。さらに、以前は、京都の「清水寺」も、法相宗に所属していたのですが、現在は「北法相宗」として独立しています。
このように見ると、世界的な観光地としても注目されてきた寺院が、法相宗に縁のある寺院だと分かってくるのですね。
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南都の仏教教団! 今も栄える
さて、この法相宗を含めて、日本の奈良時代には、仏教の宗派が6宗派あったそうです。
「南都六宗」と言われています。
法相宗の他は、
「三論宗」
「成実宗」
「倶舎宗」
「華厳宗」
「律宗」
がありました。
法相宗と倶舎宗は、玄奘三蔵の漢訳した経典を拠り所に探求する宗派となっていて、他も中国発祥の宗派となっています。それ故か、個別の寺院は有名でも、宗派については日本ではあまり知られていない印象です。
しかし、何と言っても、中国では廃仏運動により滅びてしまった宗派が、日本では現存している事実があるのは、日本の仏教を受け入れる土壌が深かったと言えるでしょうか。
※ちなみに「南都」とは、奈良の都のことですね。
794年平安京遷都以降、「京都」に都があった時代、京都(平安京)に対して、そこから南方にあった、古都の奈良(当時は「大和」と呼ばれた)に敬意を持って「南都」と呼ばれたのですね。
明治時代の「東京」遷都以降の現代では、あまり馴染みがない言い方になるでしょうが、「ナント」という呼称は、筆者の個人的な感覚では魅力的な響きに聞こえますね。
おわりに
そして、その玄奘の、唯一の日本人弟子である道昭に学んだ門弟は幾人もいました。その中には「行基」がいたとも伝わっています。東大寺の大仏造営に深く寄与した人物ですね。ここで、玄奘→道昭→行基という一筋の流れが出来上がりました。
玄奘が間接的に、日本の大仏建立へ影響を与えたのか?とも考えてしまうところですが、行基の生涯を追ってみると、玄奘の意思が受け継がれているような気がしてきます。
次回は、行基について解説してみたいと思います。どうぞお楽しみに。
【了】
【参考資料】
・『道昭 --- 三蔵法師から禅を直伝された僧の生涯』(石川逸子 著 / コールサック社)
・『民衆の導者 行基』
(速水侑【編】/ 吉川弘文館)
・『唯識 さとりの智慧 ---「仏地経」を読む』(長谷川岳史 著 / 春秋社 )
・『臨済宗 国泰寺 公式サイト 』