「仏教を優遇した武則天」女帝は弥勒菩薩を目指したのか?


 

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水月観音像(仏像)

 

中国王朝の唯一無二の女帝・武則天(ぶそくてん)は、皇帝に即位すると、国教の待遇として仏教を奨励したのですが、これは、中国王朝の歴史の中でも特別な変化を与えたと言えます。

 

孔子と儒教

 

中国王朝の歴史では、特に漢民族の王朝では、中国古来の思想の「儒教(じゅきょう)」と「道教(どうきょう)」が重視されてました。ちなみに、武則天登場までの唐王朝の皇家は、「道教」を国教の待遇としていました。

 

周を建国する武則天

 

「道先仏後」と言われていたくらいなのです。それが、武則天の時代になると、急に順序が逆になり、「仏先道後」と言える事態になったのです。それでは、具体的に武則天は、どのように仏教を優遇したのかを見ていきたいと思います。

 

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「大仏」建立を勧めた?

女帝・武則天a(女性)

 

まず、武則天によって、帝国内の各州に「大雲寺(だいうんじ)」(「大雲経寺」の略)を設けることが奨励され、豪華絢爛(ごうかけんらん)な仏寺も多く建築されたというのです。

 

洛陽城

 

さらに、武則天は、首都の洛陽(らくよう)(このときは改名され「神都(しんと)」と呼ばれた)の城下に、仏事法要を盛大に行う「天堂(てんどう)」を造らせました。

 

この一大事業は、僧の「薛懐義(せつかいぎ))」に命じて実現させたと言われています。【※この僧は、薬売りの身分から武則天に気に入られ大僧正へと異端な出世を遂げた人物と知られています。】

 

しかも、その天堂の中には大仏を造らせたのです。しかも、それは高さ30m程度となる巨大なものでした。

 

現代、中国での大仏で主に知られているのは、現在の河南省(かなんしょう)・洛陽郊外にある「龍門石窟(りゅうもんせっくつ)」の仏像群です。中でも「奉先寺洞(ほうせんじどう)」の大仏は最大であり、17m強の高さに相当します。672年に着工し、莫大な費用を投じ、675年に完成したと言われています。

 

唐王朝の三代皇帝高宗(こうそう)の代で、ちょうど武則天が武后として執政で関与していた頃ですから、武則天が、この大仏造営にも少なからず関わっていたことでしょう。

 

ちなみに、その「奉先寺洞」の大仏は、後に、日本の奈良・東大寺(とうだいじ)の大仏(約14.7mの高さ)造営のため、参考にされたと言われています。ですから、神都(洛陽)城下の大仏が如何に巨大だったか?と驚かされます。その大仏の小指に、人が30人ほど入ることもできたと言うのです。

 

この大仏の造営には、莫大な費用をかけ、庶民たちを、一日に1万人ほども使役したとも伝わっています。

 

僧侶を手厚く保護した武則天(withコーノさん)

 

さらに、完成してからは、皇帝・武則天の計らいで、その大仏殿へ、男女・身分・貴賤問わずに招いたり、銭をばらまいたりする興行を催したようです。それが都の庶民たちには人気だったとも言われています。

 

しかし、その大仏は、造営を指揮した「薛懐義」自身によって、呆気なく焼失させられたのです。薛懐義は、武則天の寵愛を受けたい一心とか、気狂いになったために放火したと言われています。その後まもなく、薛懐義は、武則天の配下の手のものによって、秘密裏に殺害されたようです。

 

大和朝廷

 

 

 

諸外国への影響

五重塔(仏塔)仏教

 

─ 武則天の仏教布教 ─

この仏教優遇の影響は、諸外国にも波及していきます。もちろん日本にもです。

 

先程の話にもあったように、日本の東大寺の大仏は、洛陽にある「奉先寺洞」の大仏の影響を受けていたのです。ちょうど武則天の晩年の頃(702年?703年)、日本からの使節団が「神都」(洛陽)にやってきました。

 

斉明天皇と海で取っ組み合いをする武則天(白村江の戦い)

 

主な目的は「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)以来、断絶していた国交正常化を求めていました。そのとき、都の周辺にあった豪華絢爛な仏寺や大仏を目にすることになり、影響を受けたと考えられます。

 

さらに、付け加えると、唐王朝や武周(ぶしゅう)王朝を長年に渡り、脅かしていた、北方の雄として存在感を増していた「遊牧帝国」の「突厥(とっけけつ)」の民も仏教を信仰していたそうなのです。王族たちも仏教へ改宗したと言われています。それは唐王朝の成立の前後の頃かと言われています。

 

武則天の時代には、より強く影響を受けた可能性もありますね。

 

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行き過ぎた仏教信仰と武則天

女帝・武則天b

 

しかし、武則天の仏教優遇の姿勢は拍車をかけていきます。692年、家畜類も含めた獣や魚類を殺生することも禁じるという、徹底ぶりを見せたのです。(※日本で例えるなら、江戸幕府の五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)の「生類憐(しょうるいあわ)れみの令」を先に行く法令でした。)

 

怒る村人 三国志

 

これには、宮中も含め、一般庶民たちも辟易したことでしょう。ただ、その法令が解かれたのは700年で、8年もかかったのです。このように、武則天の仏教への信仰は、執着と言えるほどの特異なものでした。

 

三蔵法師

西遊記 三蔵法師

 

─ 時を超えて生き続ける ─

 

いつしか、武則天の仏教布教活動は、生きている者に対して慈しみの気持ちで接するという、本来の仏教精神が極論的へと変化していたのでしょうか。

 

 

しかし、武則天が仏教精神を強く持つに至った、その影には、あの有名人が関与したかもしれないと思えてくるのです。「三蔵法師(さんぞうほうし)」として世に知られている「玄奘(げんじょう)」の存在です。

 

太宗

 

武則天は、唐の二代皇帝の太宗李世民(りせいみん)の代で、側室として後宮入りしていました。武則天は14歳の頃と言われています(642年頃)。

 

 

645年には、玄奘が天竺(てんじく)と呼ばれたインドへの長旅から長安(ちょうあん)に帰朝します。その時、玄奘は李世民に謁見したと伝わりますが、このとき、武則天は、長安の都の後宮にいた可能性があります。

 

西遊記 三蔵法師と仏像

 

玄奘に会っていたかもしれないし、会える身分ではなかったとしても、距離をとって眺めた程度か、あるいは、玄奘の説法を聴いていたかもしれないのです。少なくとも、武則天は玄奘の存在は知っていただろうと思えます。

 

尚、玄奘は、664年に死去しているのですが、645年に都の長安に帰朝後は、遠方にはいかず、『大唐西域記(だいとうさいいきき)』などの執筆や経典漢訳作業に専念し、亡くなる直前まで続けられたようです。その間、首都・長安の近郊に滞在していたとのことです。

 

武則天が皇后として執政を始めたのは、655年ですから、武則天と玄奘の間で、交流があっても良さそうと考えてしまいます。直接会ってないにしても、「人」や「文」を介してやり取りがあったかもしれませんね。その内に、武則天の心の中に、仏教精神がより強く芽生えてきたのでしょうか?

 

しかし、それがいつしか行き過ぎた仏教精神になってしまったのでしょうか。周りの影響もあったかもしれません。特に前述した、薬売りからの成上りの僧・薛懐義は、武則天の皇帝即位に尽力したようです。

 

大雲経(だいうんきょう)』という大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の経典を参考にして、武則天を「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」や「天女」として結びつけ、釈迦(しゃか)の生まれ変わりのような聖者の存在に仕立て、持ち上げ過ぎたところがあったようなのです。

 

【※「弥勒菩薩」とは、釈迦の次に、未来に現れ、人々を救済することが決まっている、悟りを開いた存在[(ほとけ)=ブッダ]です。

ただ、現在は修行中の身分なので「菩薩」と言われています。】

 

それに武則天自身も乗っかってしまったのかもしれません。

彼女が生涯をかけて愛したという、夫でもあった三代皇帝・高宗は、この世を去って数年後の時でしたから、

彼女の心理状態は情緒不安定だったかもしれないですね。

甘い誘惑に乗ってしまったというものでしょうか?

 

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中国史ライター コーノの独り言

コーノヒロさん(はじめての三国志ライター)

 

このように考察していくと、

「玄奘→武則天→遣唐使(あるいは遣武周使(けんぶしゅうし))→日本の大和朝廷→大仏建立」と繋がりを強く感じざる得ません。玄奘の偉大さを強く感じてくるようになりますね。次回は、玄奘の功績を探っていきたいと思います。お楽しみに。

 

【参考文献】

  • 『則天武后』

外山軍治(とやまぐんじ) 著・中公新書 )

  • 『則天武后 』

氣賀澤保規(けがさわやすのり) 著・講談社学術文庫 )

 

  • 『隋唐帝国』

布目潮渢(ぬのめちょうふう)栗原益男(くりはらますお) 著 ・講談社学術文庫)

  • 『古代遊牧帝国 』

護雅夫(もりまさお) 著 ・ 中公新書)

  • 『南方仏教基本聖典』

(ウ・ウェープッラ 著・中山書房仏書林)

  • 『慈経/宝経/吉祥経 【初期仏教経典解説シリーズ㈿】』

(アルボムッレ・スマナサーラ 著 / サンガ)

  • 『キャラ絵で学ぶ! 仏教図鑑』

山折哲雄(やまおりてつお) 監修・いとうみつる 絵・小松事務所 文・すばる舎)

 

 

武則天

 

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歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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