今回は、庶民を指導して、奈良の東大寺大仏建立に貢献したという僧侶「行基」についてお話します。行基(668年〜749年)は、奈良時代に生きた、多くの一般庶民に慕われたお坊さんとして知られています。現代に生きる私たちの間でも、日本史の登場人物の中では、人気が高いのではないかと思います。
前回の話では、
「玄奘三蔵」の弟子に、日本人の「道昭」がいて、その弟子が「行基」であったという話でした。
玄奘が、仏教の伝道者として、弟子たちを通して、日本へ自らの意志を伝えようとしたのではないかと思えるような展開です。そして、玄奘の教えは、日本の奈良の東大寺の大仏建立にもつながったのか?と考えてしまいます。
例えば、玄奘が天竺(インド)の旅から唐王朝の都「長安」に戻ってから晩年までの期間に、「洛陽」という大都市近くにあった「龍門石窟」では新しい大仏を建立中でした。
その様子を玄奘は見ていたかもしれません。というのも、時の皇帝の高宗・李治が、「龍門石窟」近くの洛陽まで赴いた際、玄奘も共に付き添っていたのです。さらに、その近くでしばらくの期間を過ごし、仏典の翻訳作業もしていたというのです。
そのとき、玄奘は、龍門石窟の大仏建立中の様子も確認したのかと想像してしまいます。大仏建立に批判的な意見を持っていた記録は見当たりません。
むしろ逆です。例えば、現在のアフガニスタンの「バーミヤン遺跡」の大仏(これは2001年に武装勢力に破壊されてしまいましたが)を見て、その感動を記録に残しているというのです。大仏建立自体には好意的であったと見られます。
そして、その弟子たちも然りではないかと考えるのが筋です。玄奘の弟子の道昭の元でに学んだ、行基はどうだったしょうか?行基の生涯を追うことから始めてみましょう。
行基の生涯を追う
まず、「行基」という名は別称で、元々は「法行」という法名(出家者に与えられる名前)だったそうです。生まれは、現在の大阪府堺市付近とのことです。(河内国か和泉国かの説で別れています。)死没地は、大和国(現在の奈良県)の平城京の中にあった「菅原寺」と伝わっています。(この寺は、現在は「喜光寺」の名で存続しています。)
しかも、生涯を通して、畿内(近畿地方)から出ることはなかったようです。出生地の大阪と平城京の都のあった奈良付近で過ごしたようです。二十代前半の歳から金剛山(大阪南部から奈良中部を跨ぐ)で修行し、長期間、俗世間と離れて過ごしました。
四十歳に入る手前から、大阪の生家に戻り、年老いた母へ孝養する生活をしていました。生駒山へ移り、草庵を結んで、母と数年間、生活を共にしましたが、母は死去します。その後も数年間は、その近くを転々として草庵を結び、山林修行のような生活を送っていたのです。
ただ、そこは都につながる街道にも近かったようで、当時の新都の「平城京」の造営に酷使される庶民の姿を目の当たりにすることもあったようです。それに心傷めたのか、行基は一念発起し、庶民救済のために、奈良の平城京の都へと向かったというのです。
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「朝敵」だった行基?
行基は、平城京の都で、貧困層の庶民たちに「利他行」(自分のためでなく、他者の利益になることを行う)の実践を行いました。しかし、これは当時の大和朝廷では禁令でした。「僧尼令」という法令があり、そこには、僧侶や尼のあり方について書かれているのでした。
百姓が勝手に、僧や尼僧として出家することや、出家した僧尼が寺院に定住しないで、転々と動き、人々を集めて教えを説くことや、昼夜問わず托鉢を行い食物や財物などを請うことなどを禁止していたのです。
しかし、行基とその周りに集まった者たちは、それを無視して、托鉢を集団で行い、集めた食物や財物などを困窮している庶民たちに分け与える行為をしたのです。しかも、それを平城京の都の中で行ったのです。その様子は、すぐに朝廷内部に知られることになり、違法行為として糾弾されたのでした。
朝廷は、行基を「小僧」と呼び、正規な僧侶として認めず、蔑んだのでした。しかし、何故、大和朝廷は、そうまでして困窮庶民たちを救う行為を禁止したのでしょうか?おそらく、朝廷側に、庶民と僧侶たちとの接触を避けさせたいという思惑があったということです。
それは、僧侶たちの神格化を狙っていたと思われるのです。聖人としての僧侶たちが、庶民たちと触れ合うのは良くないと言う考えです。俗世間にまみれて、「清浄性」という清らかさが失われていくことを朝廷側が恐れたというのです。
つまり、大和朝廷は「仏教」を政治利用して、国民を統制しようと目論んでいたため、仏教の僧侶が庶民的な存在だと、格下げのような立場となり、朝廷の存在も格下げになるのではないかと恐れたと考えられるのです。さらに言えば、庶民と僧侶たちが密接な関係になればなるほど、庶民が僧侶たちに憧れ、出家したい者たちが後を絶たない事態になるのも恐れたというのもあるでしょうか。
そうなると、国家を富ませるための働き手が少なくなる、大和朝廷にとって緊急事態ということになるのでしょうから。
(ちなみに、半世紀前近くまでの歴史研究なら、行基と庶民が結びつき、反乱を起こし、国家転覆の恐れがあるから、大和朝廷側は、当初、行基を弾圧したという説が有力だったようです。しかし、近年の研究では、それは誤りだったという可能性が高いようです。)
ともかく、初め、そのような大和朝廷の思惑により、弾圧を受けていた行基でしたが、次第に緩和されていきます。むしろ、行基の存在が優遇されるようになっていくのです。これはどういうことでしょうか?
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弾圧から優遇へ
まず、行基を支援しようとする役人や地方豪族が幾人も登場したことが大きな理由の一つです。例えば、河内地域出身の「寺史乙丸」という役人が平城京の都の中にあった自身の邸宅の土地を行基に寄進したのです。そして、その地域の呼び名にちなみ「菅原寺」と呼ばれるようになります。(※また、寺史乙丸は、後の菅原氏の祖先となる人物です。平安時代には「菅原道真」を輩出する一族となるのです。)
他にも、地方豪族で和泉地域を根拠にしていた「血沼県主倭麻呂」という人物が行基の弟子となり、「信厳」と名乗ったというのです。このようなことが起きた背景は何だったのでしょうか?
それは、行基たちが貧困層の浮浪者たちを支援していく姿を、役人身分の家族が見守る内に、感化させられる者が多く登場したのです。役人と言っても下級身分で、当時の平城京では、下級役人たちの方が上級役人に比べ圧倒的に数は多かったですし、貧困かそれに近い生活をしていた者たちも多かったでしょう。自然と行基への親しみを持つようになっていったのです。
次に、行基が行った「利他行」の中に、地方の川の架橋事業というものがあります。幾つもの架橋事業が、行基指導の元で行われていて、成功しました。当時、灌漑事業は、川の氾濫を抑え、安心な定住生活と安定した農作物の獲得には、必要な大きな公共事業でした。
さらに「川に橋を架ける」ことは、「此の世」と「あの世」の橋渡しという意味もあったようです。安心してあの世への橋渡しができるという意味で、庶民たちにとって架橋事業はとても重要視されたのです。そして、その架橋事業の担い手には下級役人たちが含まれていて、架橋のための知識や技術を多く提供したようです。
このように、行基に協力する者たちが多く現れ、架橋事業は幾つも成功しました。その川の周辺を根拠地とする豪族たちにとっても、有り難い存在になっていったのでしょう。
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おわりに
行基の架橋事業の成功の報は、そのうちに上級役人たちや大和朝廷の内部にまで届いていくのです。次回は、行基が深く大和朝廷に関わっていき、大仏建立にも深く関わる理由などの話をしたいと思います。お楽しみに。
【主要参考文献】
・『玄奘 新装版 (Century Books 人と思想)』
(三友量順 著 ・清水書院 )
・日本の名僧 2巻『民衆の導者 行基』
(速水侑 [編]・吉川弘文館)
など
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