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地位の低さに絶望し故郷に帰ろうとする華佗
さて華陀の投獄に関しては、実は正史でも同じように投獄されています。ただ、その経緯は三国志演義とは違うものとなっているのです。当時、医者の地位は高くなく、華陀はそれを不満に思って曹操にかけ合うも、曹操は取り合ってくれません。これに怒った華陀は医学書を取りに故郷に帰ると言い、曹操はこれを許可しました。しかし華陀は帰ってこず、曹操が使いを出すと「妻が病気になったので」と言うではありませんか。
が、これが真っ赤なウソ。
医者の仮病に怒ったのか、曹操は華陀を捕らえて獄中死させました。この際に荀彧が必死で止めますが、曹操はこれを聞き入れることはなかったのです。これが208年のことと言われています。
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少しの違い
尚、この後に曹操が可愛がっていた子の曹沖が病にかかり、亡くなりました。この時に曹操はあの時に怒りに任せて華陀を殺してしまったことを深く後悔したといいます。
平時にこそ求められない医者ですが、危機的状況になれば頼りにする存在。それを我が子の死で痛いほどに知るというのは、何だか身につまされるようですね。
因みに余談ですが、三国志演義で華陀を助けようとするのは皆大好き賈ク先生です。これは既に荀彧が亡くなっているからですが、ここで進言をすることで「やはり賈ク先生のアドバイスは聞き入れるべき」と思わせられる一幕となっていると思いました。
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三国志ライター センのひとりごと
華陀は投獄された際に、自分の持っていた医学書を牢番に渡そうとしました。しかし華陀はその時には罪人。自分にまで火の粉がかかることを嫌がって牢番は断り、華陀は諦めてこの書物を焼かせました。
もしこの医学書が残っていたら、どれほど医学が進んだでしょうか。華陀ほどの天才でなければ分からず、何も変わらないかもしれません。それでもあの時ああだったら。そう思ってしまうのは、後世の人々の完治できない性でしょうかね。
ちゃぽん。
参考文献:魏書華陀伝 後漢書方術伝
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