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郭援とはどんな人?叔父の鍾繇と骨肉の争いを繰り広げた袁紹軍最後の名将

2022年5月9日


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文醜と顔良

 

名門出身且つ、河北(かほく)の雄、袁紹(えんしょう)。祖の配下と言えば、顔良(がんりょう)文醜(ぶんしゅう)という名前のインパクトがあるお二人が有名ですが、決してそれだけではありません。

 

郭援

 

今回ご紹介するのは郭援(かくえん)もまた、袁紹軍の隠れた勇将です。とは言え、この郭援、本人の勇猛さよりも、その最期の方が色々と有名なのはちょっと寂しい所。そこでこの郭援について、じっくりと見ていきたいと思います。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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郭援の母は鍾繇の姉

文臣の最高官位に登る鍾繇(しょうよう)

 

さてこの郭援、実は曹操(そうそう)の重臣、荀彧(じゅんいく)が大好きな(しょうよう繇の甥っ子です。どうやら鍾繇の姉の子らしいので、郭援からすれば鍾繇は叔父さんになりますね。そんな鍾繇は曹操陣営に仕えた重臣中の重臣ですが、郭援は曹操配下ではなく、袁紹に仕えていました。ここで注目して欲しいのが郭援の名前、特に姓です。郭援は()ク先生……じゃなかった、郭姓ですね。

 

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三国志主要戦図一覧

 

 

 

袁紹軍の軍師、郭図や郭嘉は血縁者

 

袁紹軍と言えばこの軍師、と言うべき存在に郭図(かくと)がいます。郭図は豫州(よしゅう)の名士、そして郭援、それから郭嘉(かくか)もこの豫州の出身と言われています。

 

基本的にその地方の名士は、その地方で固まって派閥を作ります。だからこそその地方では名士が力を持ち、その力を取り込むために群雄は名士を多く味方に付けるのですが……ともかく、郭援もまた、郭図の同族だったのでしょう。恐らくはその縁から、袁紹に仕えたものと思われます。

 

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三国志主要人物の出身地図

 

 

鍾繇が出陣し郭援を迎え撃つ

鍾繇(しょうよう)と木簡

 

そんな郭援は、袁紹の死後にその姿を見せ始めます。202年、よりにもよってなタイミングで袁紹死去。この機会を逃がさず曹操が袁家に攻撃を加えます。

 

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

ここで袁紹の子、袁尚(えんしょう)が曹操の背後を突くべく匈奴(きょうど)を利用し、平陽(へいよう)で反乱を起こさせます。これに対抗するべく派遣されたのが曹操軍からは鍾ヨウ、そして袁尚の方から派遣されたのが郭援。血族の戦いです。

 

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合肥侯擁立事件

 

 

鍾繇が馬超とホウ徳を袁尚から離反させる

曹操のもとで才能を発揮する鍾繇(しょうよう)

 

鍾繇は首尾よく平陽を包囲するも、向かってくる郭援の勢いは強く、諸将は怯えます。そして鍾繇に撤退を進言しますが、鍾繇は甥の性格を熟知していました。

 

「郭援は強情で負けず嫌いな性格なので、我が軍を侮っています」

 

ホウ徳、馬超

 

この時、馬超(ばちょう)の父親、馬騰(ばとう)は袁尚と通じていましたが、鍾ヨウは手を回して馬騰を説得。馬騰はこれを受け、鍾ヨウに配下を派遣しました。この際に派遣されたのが、あのホウ(とく)と馬超です。

 

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破竹の勢いの郭援

牢獄に入れられる賈逵(かき)

 

一方、郭援の勢いは正に破竹。平陽に至るまでの道のりで各地の城をどんどん降伏させて行っていたのですが、途中で絳の賈逵(かき)が籠城を選択します。これを猛攻によって攻める郭援、ここで絳の長老たちは「賈逵を殺さないこと」を条件の降伏を申し入れます。

 

それを受諾した郭援、名将と評判の賈逵を迎え入れようとしますが「賊相手に頭など下げるものか!」と郭援を罵倒。

 

怒った郭援はこれを殺そうとするも長老たちが猛反発し、部下から宥められたので中断。その間に賈逵は郭援の進軍を妨害する策を立て、一週間も足止めを受けてやっと郭援は平陽にたどり着いたのです。

 

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鍾会の乱

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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