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馬超に殺される楊阜の一族
そうして212年。遂に涼州の兵たちが打倒馬超の時の声を挙げます。馬超も楊阜たちを攻撃しようとしましたが、この隙を突いて冀城を占拠。
この時に歴城の姜叙の母は、馬超を「父親を見捨てた逆子!」と罵倒したことで馬超の怒りを買い、人質となっていた趙昂、王異の息子と同様、殺されてしまいます。また楊阜の一族の七名も、処刑されてしまいます。血に塗れた涼州の争いが始まりました。
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夏侯淵の英断で援軍が冀城に届く
一度は馬超を追い出した楊阜らでしたが、馬超は漢中で兵を借りて再びやってきます。この際に姜叙は駐屯していた夏侯淵に援軍を要請します。嘗て、援軍に向かった夏侯淵は途中で韋康が降伏してしまったために、帰還するしかありませんでした。そして今回も援軍要請に、諸将は曹操の判断を仰ぐべきだ、と進言します。
「そんなことをしていたら姜叙らは助けられない!」夏侯淵は曹操の返事を待たずに進軍、安定の張コウを先行させました。今度こそ、援軍は届いたのです。
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曹操の恩賞を辞退する楊阜
こうして馬超は分が悪いと判断したのか、漢中へと逃れて行きました。後に夏侯淵は馬超、韓遂を討ち倒して涼州を平定します。そうしてこの結末を聞きつけた曹操がやってきました。曹操は楊阜の働きを聞き、関内侯に封じようとしました。
その働きを、忠義心を評価したのでしょう。しかし楊阜はこれを固辞しました。
「私は」
「韋康様を守れなかったのです」
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三国志ライター センのひとりごと
因みにこの後、何度も曹操が言ってくるので楊阜はこれを受けることになるのですが、ストーリー的にはここで終幕としてみました。たまにはこういうのもいいでしょ、ということで。
しかしまあ話の流れは大体正史の記録がこの通りです。また楊阜の言葉も、この後に「あと、馬超を取り逃してしまいましたし」と続きますが、概ねこの通りです。ちょっとだいぶ馬超が悪役ですが、楊阜伝、一つのストーリーか?というほど綺麗にまとめられています。ぜひとも興味のある方は、楊阜伝をご覧下さいませ。
かぽーん。
参考文献:魏書楊阜伝 閻温伝
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