皆さんは人豚の刑をご存知でしょうか?ちなみに猪八戒とは関係ありませんよ。
人豚刑とは、古代中国の歴史に時々出現する個人的みせしめであり、実際の刑罰には入っていません。しかし、そのあまりにおぞましく惨たらしい方法から聞く人に衝撃を与え、世界的に有名になってしまったのです。今回は人豚の刑について解説しましょう。
この記事の目次
両手両足を切断し目と喉を潰す人豚の刑
では、人豚の刑の内容について解説します。人豚刑とは、人間の両手両足を切断し、目と耳を潰し喉を潰して歩く事も話す事も見る事も聞く事も出来なくした後、豚便所に放り込んで死ぬまで放置するむごたらしい方法です。
人間は両手両足を切り落としただけでは死なないので、豚便所に落された打撲や骨折、そして切断された両手両足の痛み、さらには目も見えず話す事も聞く事も出来ない絶望的な状況で、数日間生き続けないといけません。考えるだけで、恐ろしいのが人豚刑なのです。
どうして人豚なのか?
東アジアから東南アジアにかけては、人が豚を飼育して食べる事が一般的でした。そして人間の排泄物は、かなり栄養が豊富なので豚にとっては御馳走で人が排泄行為をしていると近寄ってきてウンチを食べる事がありました。しかし、トイレの度に豚が寄ってきては落ち着いていられないので、豚が這い上がれない程度の深さの穴を掘り、そこに板を渡して便座にする事が編み出されます。こうして人間のトイレの下には豚が飼われるようになり、人の食べ残しやウンチを餌として太っていく事になります。
古代中国では、屋敷の二階がトイレと浴室、一階が豚小屋でした。豚小屋は薄暗く湿気が高く豚はその中でグーグー鳴いている状態です。この豚小屋に二階のトイレから両手両足を切断して目と耳と喉を潰した人豚を放り込むと大けがをして糞尿に塗れ、声が出ませんから豚のように、もぞもぞとうごめき、うめき声をあげるしかありません。その様子が豚にそっくりなので人豚と名づけられたのです。
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最初に人豚を作った女 呂雉
では、そもそも史上最初に人豚を製造したのは誰なのでしょうか?
それは恐らく人豚の名づけ親である呂雉でしょう。呂雉とは、漢の建国者である劉邦の皇后で、一般には呂后と呼ばれます。劉邦が無名時代から支え続けた糟糠の妻で、自らも項羽の人質になるなど苦難を重ねながら劉邦を助けました。やがて嫡男である劉盈も誕生します。
ところが項羽を相手に転戦していた劉邦は、元々女好きだった事もあり、戚夫人という舞の上手な美女を側室に迎え入れて寵愛します。戦争の時も戚夫人は劉邦に付き従い、碁の相手を務めたそうなので、利発で機転が利く女性だったのでしょう。寵愛の結果として戚夫人は皇子を産みます。劉如意です。
子供が生まれた戚夫人は劉邦に、劉盈ではなく息子の如意を次の皇帝にして欲しいと何度も懇願しました。劉邦も溺愛する戚夫人の頼みなのでその気になります。呂雉は気が気ではなく、重臣の張良にアドバイスを求めるなどしてこれを阻止しました。やがて劉邦は死に、二代皇帝には劉盈が即位しますが呂雉の心には憎悪が燃え盛ります。
血も凍る呂雉の復讐劇
呂雉の恨みは二重にも三重にも重なっていました。第一に、劉邦が容姿の衰えた自分を捨て、戚夫人に夢中になったという女としての屈辱第二に、戚夫人が野心を持ち劉盈を押しのけて劉如意を皇太子にしようとした恨み最後に、息子の劉盈と戚夫人の子の劉如意では如意が利発で劉邦も可愛がった事に対する侮辱です。
元々、大商人の娘で気位が高く、ガマンにガマンを重ねて劉邦の天下取りを支えてきた呂雉にとって、その全てを奪い取った戚夫人への恨みは並大抵ではなかったのです。「少しばかり容姿が美しいだけで、身分も弁えず夫をたらしこみおって…危うくわが子の帝位を失う所であったわ!忌々しき豚にも劣る淫乱女め、今にみておれ、全てを奪い取る罰を与えてくれる」
呂雉は劉邦が死んで劉盈が即位すると、すぐに戚夫人を罪に落し入れ自分の奴隷にしました。そして長く美しい髪を剃り落とさせ、一日中、豆を搗かせる重労働を科します。その間に呂雉は趙王、劉如意を長安に呼び出して毒殺しました。
次に重労働でやせ衰えた丸坊主の戚夫人を引きずり出し、悲鳴をあげる戚夫人の両手と両足を切断します。激痛に悶えながら助けを求める戚夫人をつかまえ、両眼をくり抜いて視力を奪い無理矢理に毒を飲ませて、耳と喉を潰しました。
「豚は豚に相応しい場所に行くがよい」
呂雉は血まみれの戚夫人を部下に担がせると、豚便所に叩き落とします。
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恵帝が人豚を見て精神を病む
糞尿にまみれ豚とともにうごめいている、かつて戚夫人だった人豚を見下ろし、呂雉は狂ったように笑い転げます。そして、こんなに面白い見世物を独占しておくのは勿体ないとして息子である恵帝を呼び出し、豚便所でうめき声をあげる戚夫人を見せます。しかし便所は薄暗く、恵帝には母が自分に何を見せたいのか分かりません。
「母上、あの豚の中でうごめいている得体が知れないものはなんですか?」
「おや、わからないのかい盈?あれは私の奴隷の戚夫人だよ」
その瞬間、恵帝の顔から血の気が引きました。あの美しかった戚夫人が豚便所で糞尿に塗れ、芋虫のようにうごめいている。恵帝はたまらず嘔吐し急いで部屋を出て行きました。繊細な神経を持つ恵帝は母の仕打ちが理解できず、以後は心を病んで酒と女に溺れ、即位から数年で崩御します。人豚の刑2番目の犠牲者は恵帝だったのかも知れません。
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人豚の刑はどうやって発想された?
いくら、呂雉が残酷な性格をしていたとしても、何もない所からいきなり人豚の刑を思いつくとは思えません。実は、古代中国では肉刑と呼ばれる刑罰が存在しました。肉刑とは人体を切断したり、刺青をいれるなど肉体に傷をつける刑罰の事です。逆に身体を拘束するだけで傷をつけない刑罰は自由刑と言います。
呂雉が生きていた時代は、過酷な刑罰で知られた秦帝国が存在した時期でもあり、足斬りや鼻削ぎ、刺青や人体を腰から真っ二つに斬って処刑する腰斬という刑罰がありました。呂雉は若い頃から、このような肉刑を科された人を見ていたので両手両足を切断し、目をくりぬき耳と喉を潰すという、おぞましい人豚刑を思いついたのかも知れません。
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世界史ライターkawausoの独り言
今回は、呂雉が最初に考案したと考えられるおそましい処罰、人豚の刑を紹介しました。いくら憎くても、恨んだ相手の四肢を切断し、目をくりぬき耳と喉を潰して便所に落すなど、恐ろしくて実行できそうにありませんが、呂雉は恵帝の死後に呂一族を王に立てて、漢を乗っ取ろうとしたような女傑なので可能だったのでしょうか?
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