この記事の目次
合肥に新しい城が築かれる
曹操が亡くなり、その息子曹丕も亡くなり、曹叡が後を継ぎました。しかし、その間も孫権は健在であり、いまだに合肥を狙っていました。
合肥周辺の戦いでは水軍が仕えることもあり、水戦が苦手な魏はいつも苦戦を強いられていました。
そこでこの地域の軍事を担う「満寵」は今の合肥城から離れた場所に城を新しく築くことを提案します。一部反対意見もありましたが、これは許可され、「合肥新城」が築かれたのです。
こちらもCHECK
-
満寵とはどんな人?裏の顔は泣く子も黙る拷問の達人【年表付】
続きを見る
こちらもCHECK
-
常播とはどんな人?激しい拷問に耐えて記録に残った蜀臣
続きを見る
合肥新城固く、何度も敵を追い返す
西暦234年、蜀の諸葛亮の北伐に呼応し、孫権は合肥新城に兵を進めます。呉軍は攻城兵器を使い城に攻め寄せますが、満寵がわずかな兵で兵器を燃やすことに成功します。
その後も懲りずに孫権は城を攻めますが、その守りは固く、また、諸葛亮の北伐も失敗したこともあり、撤退をすることになります。
こちらもCHECK
-
馬謖の山登りは王平が原因だった!陳寿が隠した真実?
続きを見る
孫権死後も呉は城を狙う
孫権の死後、「諸葛恪」が呉の実権を握ります。西暦253年、彼は攻め寄せてきた魏を撃退、勢いに乗って魏に侵攻し、合肥新城を狙います。
合肥新城では持久戦を選択し、2か月間城を守りますが、疫病も流行り落城の危機を迎えます。そこで城を守っていた「張特」は偽りの降伏をし、時間を稼ぎ、その間に城を修復して諸葛恪を撃退することに成功します。
結果、「合肥の戦い」は30年近く続きましたが、結局が呉は合肥を落とせず、魏が守り切りました。
こちらもCHECK
-
諸葛亮になりたかった?呉の虎の息子・諸葛恪の思惑
続きを見る
三国志ライターみうらの独り言
合肥での死闘は魏の勝利に終わりました。呉は何度も魏を攻めるチャンスがあったようですが、結局合肥を落とせず、悲願は果たせませんでした。よほど合肥は堅固だそうで、一度は自分の目で確認してみたいものですね。
こちらもCHECK
-
鉄壁の合肥城を作り上げた劉馥の一族にとんでもない奴がいた!?
続きを見る