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case2:賈ク
続きましては第二番手、皆さんも大好き賈ク先生です。何故賈ク先生かと言いますと、賈ク先生もまた、曹操に後継者問題のご相談を受けている間柄。まぁ陸遜の場合は相談を受けたというか陸遜の方から首を突っ込んできたとも言えるのですが……。
そこを考えると、立ち回りが上手く、相談を上手に捌いてくれる賈ク先生がいたら、二宮の変は起こらなかった?
対して陸遜の方はズバズバ言っちゃうから、曹操から「後継者問題に首ツッコミ過ぎるのは困る」と判断されちゃうかもしれませんね。
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case3:陸績
はい、陸績くんは従父になる人物です。と言っても陸遜よりも陸績の方が年下ですね。
お母さんのためにみかんを持って帰ろうとしたお話が有名ですが、この袁術様の所の孫策くんに攻撃され、失意の内に父親は亡くなり、一族離散……と陸遜と同じく苦労した少年時代を送りました。
しかし後にこの孫策に仕えるようになり、幼少ではあるものの孫策に物怖じせずに進言する姿を張昭に感心され、孫権はこの陸績の態度に畏怖していたとか。他にも天文学の方面で活躍するなど多彩さを見せつけるも、219年に33歳で死去。
個人的な意見ですが、陸績だったらどうするか、というよりも、もっと陸績の活躍を見てみたいので、彼が陸遜ほど長生きする世界線、見てみたいですね……夷陵とか荊州とかどうなるんだ?という純粋な興味です。
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陸遜と言う人物
陸遜の面白いところは、荊州の関羽の性格を良く掴み、臣下との不和を利用し、勝利したのは陸遜の手柄だということです。
そして晩年はご存知のように、主君の後継者問題に巻き込まれ、更には呉の諸将の対立にも巻き込まれ、果てに孫権に疎まれて憤死したと言われています。
関羽の一件で臣下の不和は致命的であると理解しているであろうに、果たして陸遜は己の立ち位置に気付けなかったのか?
もしかして陸遜もまたこの頃には、割と口うるさいおじいちゃん的ポジションにいたのかな……と思うと。うーん、そりゃ孫権に疎まれてしまうな……なんて思う筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
陸遜は優秀過ぎるほどに優秀ですし、性格も実直で厳粛な人間なのですが、晩年の陸遜はちょっと孫権に不遜な面もありますね。
もちろん後継者問題がどんどん悪化していて孫権が何も手を打っていないとすれば、どうにか陸遜が軌道修正をしたいと思うのは理解できるのですが、そこで陸遜の性格が悪い方向に出たと思っています。
主君相手でも恐れずはっきりと物事を言う、これ自体は美徳ですが、ケースバイケースも重要である、と言える例ではないでしょうか。……やっぱり孫権は諸葛瑾なんだよなぁ(私情)、とため息をつく筆者でした。
どぼん。
参考文献:呉書陸遜伝
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