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漢王朝のみならず、三国志の時代においてもワイロというのは横行していたようです。まぁワイロが横行するということはそれだけ権利を持つ者がいるということで、どのような時代においてもワイロというのはなくならないものかもしれませんね。
今回のアンケートは「ワイロと言えば?」
皆さんが「ワイロと言われるとこの人」と思う三国志の人物は一体誰が選ばれるでしょうか?
左豊
「黄巾賊の反乱終結を遅らせた元凶、左豊」
引用元:はじめての三国志TV
さて劉備と公孫サンの先生で有名な盧植先生。彼は黄巾の乱の折、北軍五校士の将軍とされて張角の討伐軍を指揮します。ここで万余人を打ち破り、張角を敗走にまで追い込むのですが……この時に、霊帝が送ってきた監察官が左豊です。
左豊は盧植先生にワイロを要求、盧植先生がこれを断るとなんと霊帝に「盧植は戦ってないです」と嘘の報告を。このため盧植先生は罪人とされ、捕まってしまったのでしたとさ……本当にこいつがいなければ黄巾の乱はもっと早く集結していた可能性もあり得ますね。
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督郵
「私は督郵が印象的ですね。名前も分からない、役職名ですが、いかにも後漢末期の腐った役人って感じで。「正史」では、たしか劉備に直接縛られ、「演義」では張飛に縛られボコボコにされますね…」
「督郵押しました、張飛が大活躍したので」
引用元:はじめての三国志TV
コメントにもありますように、督郵とは役人を見張り、取り締まる役人職です。黄巾の乱で手柄を立てた劉備は県尉に任命されるのですが、そこにやってきたのが督郵です。この時に劉備は面会を申し込んだのに断られ、怒って家に押し入り木に縛り付けて200叩き、そして逃走が正史の流れ。
これが三国志演義では横柄な性格で劉備を馬鹿にし、更にはワイロを要求するも劉備は出さず、これに怒った張飛がボコボコにするという流れですね。このシーン、ワイロを要求するという心象の良くないシーンですが、張飛がスカッとやってくるので筆者も好きです!
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楊松
「やっぱり楊松ですね(笑)漢中平定した後曹操がスパッと斬るの好き」
「劉備からのワイロで馬超を孤立させて、曹操からのワイロで君主を売った楊松が、やっぱりダントツかと」
「因果応報という言葉をその身を持って教えてくれた楊松ですかねやっぱり(笑)」
「楊松ってワイロの擬人化のイメージ」
「楊松つえーなあ!」
引用元:はじめての三国志TV
いやーやはりというか何と言うか、楊松つえーなあ!(山彦)
はい楊松は皆さんも良くご存知、三国志演義の登場人物の一人。張魯の配下をやっていたのですが、色々あって張魯のとこに来ていた馬超と劉備軍の張飛が戦います。
このままじゃ二人とも失っちゃうかもしれない!ということで劉備軍、楊松にワイロを送って馬超を離反させるように仕向けます。さてワイロで馬超を劉備軍に売ったとも言える楊松、今度はやってきた曹操から賄賂を提示され、今度は主も国も売り渡しました。そしてワイロで何もかも売り渡した楊松は「主を売った」として曹操に処分されちゃうのでしたとさ。
これは「ワイロ渡すような奴なんかこうなれ」という、作者の執念なのかもしれませんね。
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陳寿
「陳寿もなのか?」
引用元:はじめての三国志TV
コメントで別の方が解説して下さっていましたが、実は陳寿先生にもワイロ疑惑が上がっています。さて見た目がよろしくないことから曹操の娘との縁談を曹丕に邪魔された丁儀という人物がおります。
丁儀は父親が曹操と古くからの付き合いだったこともあり、本来は伝が立てられるはずだったのですが、陳寿先生が丁儀らの子孫に「書くからワイロちょーだい」と言って断られたので、怒って伝を残さなかった……とも言われています。
まぁ真偽は不明なのですが、こういう話があるということは陳寿先生も意外と真っ白くはなかった……のか?
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その他
最後にその他ですが、やはりというか
「黄晧かな。...蜀を滅ぼす原因を作りました」
引用元:はじめての三国志T
黄晧が多かったですね。また十常侍など、宦官たちにワイロのイメージが色濃くあったようです。これはそもそもとして、宦官たちが皇帝らの身の回りのお世話をする、このために宦官は皇帝に近付きやすい……ということで悪い意味で実権を握りやすく、ワイロを贈る相手として選ばれた、ということでしょうか。
もちろん宦官と言えど立派な人物も多いので決して宦官=悪ではないのですが、どうしても三国志の宦官のイメージは悪くなっちゃいますね。今回も色々と興味深いアンケート結果でした。
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三国志ライター センのつぶやき
さて今回は個人的に筆者が、ワイロ、と言われて思い出した人物を。それは司馬懿の兄である司馬朗ですかね。
それは董卓が洛陽を押さえた時のこと、司馬朗の父である司馬防は息子に家族を連れて非難するように命じます。しかしこれが密告され、司馬朗は逮捕され、尋問されることに。ですが司馬朗は堂々と受け答えし、董卓もこれを受けて高く評価しました。
まあ「この人長くないな」と判断した司馬朗は董卓の配下にワイロを渡し、一族と共に故郷まで逃れてしまうのですが。
人格者で善政を行い、民から深く慕われた司馬朗。後に亡くなった兄を司馬懿は「私は人格者としては、亡き兄に及ばなかった」と言ったほどの人物ですが、そんな人物でもワイロは使うんだな……と思った事例です。
まあ使えるものなら何でも使え、の時代ということで、今回はこれにて。どぼーん。
引用元:はじめての三国志TV
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