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魯粛の凱旋と出迎え
孫権は喜んで凱旋した魯粛を出迎えました。この時に孫権は
「私が鞍を手にして馬を下りて出迎えれば、貴方の功績を十分に表彰したことになるだろうか」と尋ねると、魯粛はこう返しました。
「いいえ、それは不十分です。貴方様が天下を統一し、皇帝となって、御車の中から私を出迎えてくれて初めて、私は十分に表彰されたことになるのです」
孫権はこの言葉に、手を叩いて大笑いしたと言います。
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劉備「ええー」
さて天子、皇帝の車というものがありまして。幼い劉備にはこんな逸話があります。皇帝の車には桑の木が使われているのですが、劉備少年の家の前にもこの桑の木が生えていました。
これを見た劉備少年「大きくなったらこの木を使った車に乗るんだ!」と言って、なんてとんでもないこという!と叔父さんに叱られたというエピソードがあります。
これから考えると魯粛の言葉はより直接的で、えらい不敬なエピソードだと思うのですが……不思議なことに、魯粛の豪快さを伝えるようなエピソードで終わっているのは面白いですね。
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魯粛の晩年
さて、その後は劉備との関係が悪化したり、周瑜の後事を託されたり、呂蒙くん勉強頑張ったねとか言ったり、関羽を威圧したり、中々に活躍する魯粛ですが、217年、46歳で没します。
そして更にそれから12年、孫権は皇帝となりました。孫権は皇帝の椅子を前に、言いました。「魯粛はいつも皇帝になれと言っていた。彼はこうなることが分かっていたのだ」と。
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三国志ライター センのひとりごと
さて、漢王室がまだ健在な中で、皇帝を名乗るなどとんでもないこと。そんな時代にも関わらず、魯粛は良く孫権に「皇帝」という言葉を用いていました。
ちょっとすると不敬罪で同行なりそうな中で、魯粛は孫権に気に入られ、また孫呉のために尽くした人物であったと評価されています。その点においては、本人が名乗るか家臣がそういうかの違いもあるでしょうが、何とも面白い所ですね。
個人的に、魯粛がもう少し生きていたら、晩年の呉はどうなったかなー?とたまに想像します。嘗ての赤壁を乗り越えた人物が、樊城や夷陵をどうこなすか、ぜひ見てみたいですね。
どぼぼぼーん。
参考文献:呉書魯粛伝
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