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お粗末クーデターを聞かされた曹操
一方で曹操も三君八俊とは無関係ではありません。曹操が宦官勢力に睨まれて故郷で引きこもりしている頃、党錮の禁で獄死した陳蕃の子の陳逸や王芬、周旌のような人材が霊帝を廃位して合肥侯を皇帝に立てるクーデターを計画。
清流派人士と見られていた曹操も、周旌が接触して計画参加を持ちかけています。
しかし、合肥侯擁立クーデターはお粗末で他力本願な計画であり、成功するはずがないと見た曹操は参加しませんでした。ただ、曹操が清流派官僚とみられていたのは重要で、ここに党錮の禁以来、冷や飯を食ってきた三君八俊の人材が集結する下地は十分にあります。
戯志才もまた、曹操に漢王朝復興の大義を見て荀彧の推挙で軍師になった1人だったかも知れません。
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戯志才は長生きしなくて良かったのかも
こうして侠の精神を持つ清流派人士として戯志才は曹操の幕下で采配を振るいますが、まもなく病死しています。曹操はその事をとても残念がり、共に謀を考えてくれる人材として後任の郭嘉を見出しました。
しかし、張倹の末年を見ていると戯志才も長生きしていれば、漢王朝簒奪の野心を逞しくする曹操に幻滅し隠居したかも知れません。あるいは戯子然のような激烈な抵抗をして曹操に誅されたかも知れず、そう考えると戯志才は長生きせず後漢王朝の終焉を見ずに済んでよかったのかも知れませんね。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は謎に包まれた曹操の軍師、戯志才について考えてみました。
なにしろ情報が少ないので、ほぼ同時代に北海にいた戯子然に強引に結び付けてみましたが、三君八俊との繋がりを考えると、幾つか符合する点もあり、案外ハズレていないのではないかと思いましたが、皆さんはどう思われますか?
参考文献:正史三国志、後漢書
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