王芬とはどんな人?党錮の残党にして合肥侯擁立事件の首謀者




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王芬

 

皇帝の廃位は、それが中央集権制であれ封建制であれ特筆に値する大事件です。もちろん、そんな事件が起きれば未遂でも歴史に記録されずにはおかないと思うのですが、意外にも堂々と廃位が計画されながら、あまり記録が残っていないケースもありました。

 

それが、合肥侯擁立事件(ごうひこうようりつじけん)というクーデター未遂事件です。今回はクーデターの首謀者となった王芬(おうふん)について解説しましょう。




霊帝廃位を目論んだ王芬

王族ボンビーから一転セレブ08 霊帝

 

王芬は後漢末の霊帝(れいてい)時代の冀州刺史(きしゅうしし)でした。刺史は元々領内を回り役人の不正を調べる監察官でしたが、時代と共に権限が拡大・強化され、後漢の末には太守と変わらない存在になっていました。地方官としては最高のポストであり、ここから河南尹(かなんいん)京兆尹(けいちょういん)のポストを経て、九卿(きゅうけい)という中央ポストに配属されていく事になります。

 

霊帝の皇帝廃位のクーデターを曹操にも誘う王芬

 

しかし、このように恵まれた地位にいた王芬はどうして霊帝を廃位して合肥侯を擁立するリスクの高いクーデターに踏み込んだのでしょうか?

 

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党錮の残党による宦官皆殺し

霊帝の留守を狙ってクーデーターを起こそうとする計画 霊帝、周旌

 

その理由は、このクーデター計画に加担した人間を見てみると見えてきます。

 

張譲(宦官)

 

司馬彪(しばひょう)の九州春秋によると、合肥侯擁立クーデターには、党錮(とうこ)(きん)で宦官に処刑された清流派名士陳蕃(ちんはん)の子陳逸(ちんいつ)が名前を連ね、同じく恒帝(こうてい)の時代に宦官の専横を批判し更迭された方術士襄楷(じょうかい)も入っていました。

 

この謀議の席で襄楷は得意の天文を披露し「天文は宦者に不利で、黄門・常侍ら貴人は滅びましょう」と告げます。それを聞いた陳逸は喜び、王芬は「出来れば駆除したいものだ」と答えました。

 

宦官

 

合肥侯擁立クーデターは霊帝排除がメインではなく、霊帝を操り党錮の禁を引き起こして清流派官僚を投獄・殺害した宦官を皆殺しにする目的で計画されたものだったのです。

 

許攸

 

またこの計画には、沛国(はいこく)の豪族周旌(しゅうせい)、そして後に官渡(かんと)の戦いで曹操(そうそう)に投降し曹操軍を勝利に導いた許攸(きょゆう)も参加していました。

 

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覇を競う乱世に新たな秩序を打ち立てた曹操の生涯
曹操孟徳

 

曹操や華歆、陶丘洪も誘われる

曹操に霊帝の皇帝廃位を持ちかけた周旌

 

合肥侯擁立クーデターには、曹操や華歆(かきん)陶丘洪(とうきゅうこう)も誘いを受けていたようです。しかし、曹操はクーデターの誘いを拒絶しました。

悪徳役人の8割をクビにし邪教の祠を叩き壊すなど真面目に役人をやっていた若き曹操に惚れる周旌

 

この頃の曹操は、済南の相として汚職官僚の8割を首にして、邪教の祠を破壊し広く庶民に慕われる善政を敷いていましたが、讒言されて栄転という形で東郡太守に任命されました。

 

この栄転で改革の限界を感じた曹操は、辞令を受けず病と称して故郷に引き籠っています。曹操は大宦官曹騰(そうとう)の孫でしたが、その清廉な政治ぶりから王芬に見込まれ、沛国の豪族周旌を通じて誘いがあったのかも知れません。

 

王芬のクーデターが失敗すると見抜く曹操

 

ただ、曹操は「クーデターなんて怪しからん」と考えていたわけではありません。自分も宦官に足を引っ張られ栄転の形で左遷を食らった曹操は、宦官の言いなり過ぎる霊帝をチェンジ!と考えていましたが、王芬のクーデターが杜撰すぎて失敗すると見抜き、拒否したのです。

 

また曹操以外にも、華歆、陶丘洪が誘われ、陶丘洪は乗り気でしたが華歆は必ずクーデターは失敗し、一族は皆殺しにされると引き留めたので参加を取りやめました。

 

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異常気象でクーデター失敗

兵士 朝まで三国志

 

王芬のグループが練ったクーデターの計画は以下のものでした。

 

黒山賊

 

・霊帝が故郷である河間への巡幸に旅立つのを狙い、当時、暴れ回っていた黒山賊の討伐を願い出て、朝廷の兵力を借り受ける。

・霊帝が巡幸に出発して洛陽が空になった時を狙い、合肥侯を擁立して兵力を率いて洛陽に入城して霊帝の廃位を皇太后に迫り、合肥侯を皇帝に即位させる。

・皇帝の勅命で宦官を皆殺し、党錮の恨みを晴らす

赤い光が天を二分する異常気象が発生し行幸を中止した霊帝

 

計画は途中まで順調に進み、王芬は朝廷の兵を持って霊帝の巡幸を待っていましたが、霊帝が洛陽を出た途端に、赤い光が天を東西に分ける凶事が発生し史官の進言で巡幸が中止。王芬の黒山賊討伐も中止になり、兵力が回収されてしまいました。

 

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王芬が証拠を隠滅して自殺

クーデターがバレたと勘違いして自殺する王芬

 

間もなく洛陽より王芬に上京するように命令が出ました。タイミング的にクーデターがバレたと考えた王芬は、全ての証拠を隠滅し自殺してしまいます。ところがクーデターは洛陽には伝わっていなかったようです。

 

その証拠には、クーデターに参加した陳逸や周旌、襄楷はその後逮捕される事も投獄される事も無かったからです。

 

許攸の進言を無視する袁紹

 

許攸に関しては危険を感じ友達の袁紹(えんしょう)を頼り、その配下になりますが、もしクーデターが発覚していれば、いかに袁紹でも許攸を庇い切る事は出来なかったでしょう。

 

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こうしてみると王芬がクーデターがバレたと勘違いして、証拠隠滅に徹して自殺した事で、計画に関与した人々の命が図らずも守られたのかも知れません。

 

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コメント

  • コメント (1)

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    • 月友
    • 2021年 4月 10日

    少し語りますね。
    合肥侯国を紐解くとこんな感じです。

    合肥侯
    堅鐔→堅鴻→堅浮→堅雅

    雲台二十八将の22位に位置する左曹の堅鐔が建武6年(西暦30年)から合肥侯となり4世に渡って約100年統治したとあります。
    そして合肥侯国が廃され、合肥県になったのは建安5年(西暦200年)の事です。 

    【サラっと考察してみる】
    流れ的に堅氏以降は後漢劉氏の一門が合肥に封ぜられたと思います。

    立弟弟 合肥侯。

    ↑本場中国のWEBを片っ端から見ると殆どが「立弟弟」とありました。これは霊帝の弟が合肥侯に封ぜられたと言うことでしょうね。

    現職の冀州刺史王芬がクーデター未遂で亡くなったのが中平5年(188年)とされてまして、翌年の中平6年(189年)には霊帝が崩御します。
    王芬の後に冀州刺史になったのが御史中丞を務めていた韓馥です。この韓馥は袁氏の故吏です。

    思うに奔走の友である許攸が動いていた所を見ると袁紹は何進派(袁紹親派)の刺史や太守を増やそうと暗躍していたように思える。
    もう少し噛み砕くとこれはただ王芬一人を排除して空席になった冀州刺史に袁氏の息の掛かった人物を送るための偽装クーデターだったのではないのか。
    役目を終えた許攸が報告のために袁紹のもとに引き上げたと思えば合点がいく。そしてここから先は伍瓊の仕事となる。

    奔走の友の役割を見ると何顒と伍瓊は朝廷内での内部工作を請負っており、許攸と張邈は外部勢力の親派作りと思えばわかりやすいかな。
    この奔走の友に深く関わるのが曹操です。そして奔走の友の協力者的な位置にいるのが陶丘洪。
    陶丘洪は劉岱を龍、劉繇を麒麟と評した人でもあります。

    【奔走の友の補足】
    何顒
    袁氏と荀氏を繋げるパイプとなる。後に荀爽・荀攸・王允・鄭泰らと連携して董卓暗殺計画を練るが荀爽の病死で計画が止まる。そして何顒は逮捕。残された王允が1人その計画を引き継ぎ呂布が動きます。(かの黄琬も手伝う)

    なお荀彧を「王佐の器(才)」と評したのはこの何顒なのです。何顒が亡くなるとその遺骸を荀彧が引き取り荀爽の墓の隣に葬りました。

    伍瓊
    董卓の信用を利用して韓馥(袁氏の故吏)・劉岱(陶丘洪推挙)・孔伷・張咨・張邈(奔走の友)などを刺史や太守に推した。そして伍瓊が推した人物の大半が反董卓連合に加担しました。
    なお南陽太守の張咨は孫堅に殺され、その後任の南陽太守には袁術がなります。袁紹と袁術の確執が見え始めるのはこの時からか。伍瓊は汝南の人。袁紹の奔走の友であり、同郷の者でもある。

    張邈と許攸は有名なので説明は要らないかな。
    敢えて言うなら張邈の所に呂布が転がってきたのは奔走の友の何顒の計画を引き継いだ王允絡みだったからかな。遊侠好きな張邈には呂布が壮士に見ていたのかもしれない。

    【最後に】
    合肥侯国は建安5年(西暦200年)まで存続していたわけだから、お咎めを受けなかった合肥侯(霊帝の弟。献帝の叔父)は王芬の死から約12年は生きていたと言うことになります。

    これ動画化しましたら、また書くと思いますがその辺は御容赦を。




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