三国志演義では劉備の最初の軍師として知られる徐庶。そんな徐庶は荊州を曹操が落とした事により母を捕らえられ激しく動揺し、親孝行と忠義が両立できないとして劉備の下を去りました。
徐庶のその後は正史諸葛亮伝を補う魏略に登場
そんな徐庶のその後は正史諸葛亮伝を補う魏略に登場します。これによると徐庶は諸葛亮とは別の道を選択し、共通の友人、石韜と北(魏)に行ったとあります。
こちらもCHECK
-
贋書の計とは?肉親への愛を利用した非情な計?徐庶を曹操軍に引き寄せた計略
続きを見る
魏略から読み取る徐庶
魏略では石韜が魏に仕えたのを黄初年間(220年~226年)としています。徐庶については書いていませんが、同時期なので省いたと考えられます。そうすると興味深い事実が浮かび上がってきます。徐庶は劉備の下を辞してより、最低でも12年もの間、魏には仕えていない事になるのです。
こちらもCHECK
-
もしも徐庶が三国一のサボタージュ名人だったら?博望坡の戦いの裏を勘ぐってみた!【三国志演義】
続きを見る
徐庶が魏に仕えようと思った理由
では、どうして12年を経過して魏に仕える気になったのか?考えられるのは、老母が亡くなったという事ではないでしょうか?
徐庶は劉備の下を離れる時に、老母に孝養を尽くしたいと言いました。そのため、老母の存命中に魏に仕えれば劉備に嘘をついた事になります。
こちらもCHECK
-
徐庶はどこに消えた?影が薄い天才軍師を紹介
続きを見る
三国志ライターkawausoの独り言
だから徐庶は義理を立て、老母が亡くなるまでは仕官をせず老母が死んで初めて魏に仕官した。こう考える事も出来るのではないでしょうか?史実の徐庶も、なかなか義理堅い人だったのかも知れません。
こちらもCHECK
-
【劉備の初軍師・陳羣】劉備が逃げられた陳羣と徐庶には共通点があった
続きを見る