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未亡人になった後、劉備が蜀の支配者に
しかし劉瑁は早死にしたので、彼女は未亡人となってしまいます。そして運命の年、214年。この時に蜀を治めていたのは劉焉の子である劉璋でしたが、何の不運か配下の張松や法正やらが「うちのトップには劉備殿になって頂こうぜ!」となってしまい、最終的に劉璋は劉備に降伏。
こうして劉備は人徳によって益州の王者となりました。
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法正の説得もあり劉備は呉氏と再婚
当時、劉備の妻には孫夫人がいましたが、問題行動ばかり起こす上に嫡子の誘拐など、寧ろ内部の敵状態。という訳で諸将が新しい妻として当時はまだ呉氏、という身分であった彼女を娶るように劉備に進めます。
しかし劉備は同姓娶らず、つまり同族である劉瑁の妻であった呉氏を娶ることを忌避します。ここで出てきたのが劉備を説得することに定評がある法正。彼は晋の文公を例として劉備を納得させ、劉備もこれを聞き入れました。こうして呉氏は、呉夫人となったのです。
※文公は、秦の援助を受ける為、秦の公女だった甥の妻を娶っている
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高貴な身分に昇った
後に劉備は漢中王として即位。皇帝の妻である彼女は皇后となり、後に皇太后となりました。正に人相見の予言の通り、彼女は女性としてのトップに昇りつめたのです。
子供がいたかどうかは不明ですが、三国志演義では劉永と劉理の母親として描かれました。そして崩御後は劉備と共に合葬され、穆皇后のおくり名を与えられたのです。
穆皇后の「穆」とは「穏やか。慎み深い」という意味が有り、兄の呉懿の性格を考えると、彼女もまた、穏やかで出しゃばらない、心の優しい人物であったのかもしれません。
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三国志ライター センのひとりごと
個人的には、穆皇后には子供はいなかったのではないかな……と思います。皇后の身分である彼女に男の子が出来ていれば、劉禅と相続問題が起きていても不思議ではありませんからね。
また、穆皇后にはこれと言ったエピソードが殆どありません。ちょっと寂しい気もしますが、悪目立ちするようなエピソードがないことと考えると、おくり名通りの穏やかで慎み深い人だったのかもしれませんね。
ちゃぷり。
参考文献:蜀書二主妃子伝
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