現在の陝西省興平市で生まれた馬岱。陝西省ですから、道教の聖地とされる「華山」を訪れたかもしれません。目と鼻の間に西安(長安)があり、後漢の朝廷と縁のある場所で育ちました。
そのため、曹操の脅威にさらされ、馬岱の一族はほぼ滅亡しかけるほど。従兄には馬超もいて、やや影が薄い馬岱ですが、史実をベースに考察していきましょう。
馬岱の家族は?
祖父は天水郡の「蘭干県尉」の任に就いていました。名を「馬平」と言います。天水郡とは現在の甘粛省天水市。馬岱の生まれた陝西省の西隣りにあります。今も西安から天水へと続く幹線道路が走っていることから、地理的に行きやすい場所だったのでしょう。
伯父は「馬騰」、馬超の反逆が原因で曹操にやられています。続いて、兄弟や従兄について見ていきましょう。
「馬超」は後漢の軍閥を率いた有力な武将。知っている読者も多いことでしょう。馬岱は常に馬超に従って、戦乱の時代を生き抜きました。馬休は「奉車都尉」という役職で都に勤務。武帝の時代(紀元前115年)に設置された役職です。
彼も曹操の手に掛かっています。馬鉄は都で「騎都尉」の職に就いています。親戚や兄弟の内、3人が公務員という官僚一家。むしろ武将だった馬超が馬一家では異例の存在だったのです。
馬岱は馬超の子分だった!?
西暦211年。
馬岱は従兄の馬超と共に「潼関」で曹操に反旗を翻します。公務員一家と思われていた馬超と馬岱が後漢の大臣を狙ったのですから、家庭内には衝撃が走ったことでしょう。その年の9月、曹操に敗れた馬超軍は隴上郡県に撤退。
西暦213年9月。
馬岱は馬超に従い、漢中にいる「張魯」の元に身を寄せます。曹操に反旗を翻したのが原因で馬一家のほとんどは曹操に成敗されてしまったので、故郷に帰ることはできなかったのです。
西暦214年。
少しずつ歯車が狂い始めます。張魯家の将軍・楊白が馬超を恐れ、張魯家から追い出すのです。やむなく馬岱は馬超とともに蜀の劉備を訪ねます。劉備は出迎えをやって、馬超軍を歓迎。
成都を包囲すると馬超の威光にたじろいだ劉璋は10日もしないうちに敗走。劉備は馬超軍の畏怖によって、成都を手にします。
馬岱の出世のきっかけは?
軍師・諸葛亮が天に召されます。時に西暦234年のことでした。そこで起こるのが権力闘争。軍師とはいえ、実質的に蜀の実験を握っていた諸葛亮。
跡目争いでは「魏延」と「楊儀」が仲たがいします。すると楊儀の命を受けた馬岱が魏延を討伐に。
刀を一振りし、魏延は昇天。天晴れと拍手喝采を浴びたのは馬岱でした。常に馬超の影に隠れて芽が出なかった馬岱ですが、ここで出世を果たします。翌年には平北将軍、陳倉侯の位を賜り、馬岱は魏を討伐に。
ところが魏の「牛金」に敗れ、トボトボと蜀へ戻ってくるのでした。
馬岱の墓はどこに?
西安(長安)のそばで育った馬岱ですが、墓は現在の「四川省(三国時代の蜀)」にあります。新都県の軍屯鎮と弥牟鎮の境で、墓自体はそれほど大きくありません。墓の周囲は松が茂り、竹林で囲まれています。墓荒らしにあった形跡もなく、墓石の前には祭壇があり、石碑の高さはおよそ2メートル。
石碑には「漢平北将軍馬公諱岱之墓」と記されています。墓室は山の中腹にあり、高さ3メートルほどの土が盛られた構造。広漢市向陽鎮が道を整備しているときに馬岱の碑が発見され、今は政府内で保管されています。
三国志ライター上海くじらの独り言
馬岱の墓のある四川省は峨眉山で名高い場所。昔から馬岱は名山が好きだったのかもしれません。
魏延を一撃で倒すものの、兵を率いた魏への討伐では牛金に敗退。一対一の戦いには長けていたようですが、軍を率いるのは苦手だったようです。古代中国では「地形」と「天候」を掌握できれば、戦に勝てると考えられていました。
武力に長けた馬岱ですが、軍略という側面では劣っていたのでしょう。諸葛亮と組んでいれば、最高の軍隊になったかもしれません。
参考:
「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
▼こちらもどうぞ!
馬超と性格が激しい涼州人が力いっぱい衝突し地獄絵図になってしまった顛末を解説