赤壁の戦いの後、三国の間で取り合いになった場所が荊州です。
北の魏(曹操)、東の呉(孫権)、西の蜀(劉備)がクリスマスケーキのようにきれいに分割・統治しました。しかし、その後も紆余曲折あり、最後に荊州を制圧した国を即答できる読者は多くありません。ここでは三国志演義を元に「荊州争奪」について紹介していきます。
荊州分割統治案
太平洋戦争の後、日本がソ連(東北地方)・イギリス(中国・九州地方)・アメリカ(関東地方)・中華民国(四国地方)に分割統治されかけました。同じように荊州一帯も魏・呉・蜀によって分割されていたのです。
赤壁の戦いは北の曹操軍が長江を超えて侵略してきた戦だけに呉や蜀にとっては、かなりの脅威だったのです。
山の向こう側や河川は攻め入るのに骨が折れるので国境になりやすい地形です。その大河たる長江を越えて攻めてきた曹操軍の意気込みには、凄まじいものがありました。
敗北した曹操は南郡(長江の北側)まで追いかけられ、実質的に南郡の統治権をも欠き、孫権が南郡をコントロールします。さらに孫権は南陽と江夏を獲得(いずれも長江北側またはその周辺)。
一方の劉備は「零陵・桂陽・長沙・武陵(長江の南側)」を領有します。こうして荊州一帯から曹操を追い出すことに成功したのです。
劉備が南郡(荊州)を租借できた3つの理由
このときの一大勢力は曹操でした。赤壁の戦いで劉備・孫権連合軍が破ったとはいえ、長江を超えてやってきたので曹操の領地はまだまだ安泰です。むしろ劉備や孫権から言えば、もともとあった領地を取り戻したような感覚。決して安心はできません。
また、劉備は流浪の民でしたから、まだ蜀の建国前です。劉備はこの勝利をきっかけに建国の足掛かりをつかもうとしていました。まず劉備が向かうのは西の蜀(現在の四川省)でした。その途上にあったのが南郡、劉備にしてみれば喉から手が出るほど欲しい場所だったのです。
次に劉備は過去に曹操に下り、袁紹に投降した経緯があります。劉表は帰属した形をとっていますから、そもそも劉備に南郡の主権はないのです。
あるとすれば曹操を追い詰めた孫権配下の「周瑜」でしょう。
最後に孫権がなぜ南郡を劉備に貸したのかという疑問が残ります。そんな蜀への足掛かりとなるような場所を劉備に貸せば、孫権にとっていずれ脅威になるからです。しかし、劉備がもらった長江の南側となる「零陵・桂陽・長沙・武陵」の4郡は貧しい土地柄でした。
反対に孫権の取った「南郡・南陽・江夏」は民も豊かで作物もよく取れたエリア。
石油がたくさん採掘できる現代のクウェートのようなものです。このような豊かな土地でなければ首都としての機能が果たせないと劉備が孫権に言ったのです。周瑜が止めるものの、孫権は南郡のさらに北にある「南陽」も自分たちの領地だから構わないと劉備に南郡(荊州)貸します。
関羽、南郡(荊州)を守る
やがて劉備が「漢中王」を名乗ると南郡(荊州)には関羽が残されました。最初、関羽は応戦しますが、こっそりと曹操が動くのです。
司馬懿が孫権を裏でサポートするよう進言したためです。
この少し前に孫権は自分の息子と関羽の娘を結婚させようと画策しますが、破談になっています。理由は関羽が派遣されてきた孫権の息子を罵倒し、自分の娘との結婚に応じなかったためです。
こうした経緯もあり、孫権は魯粛を使って関羽を倒すよう命じます。そして、関羽と息子の関平は討伐され、「南郡(荊州)」は名実ともに孫権のものとなりました。
三国志ライター 上海くじらの独り言
劉備が蜀で漢中王を名乗ったばかりに取られた南郡。一人残された関羽は応戦するも命を落とします。
そして荊州一帯は孫権と曹操によって再分割されます。また、最後に関羽が守っていた場所であることから南郡(荊州)には壮麗な関羽廟が建てられました。明朝と清朝をフュージョンした作りで今も内外の観光客を集めています。
参考文献:「三国演義(中国語版)」羅貫中、「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
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