呂蒙は呉(222年~280年)の将軍です。後漢の建安24年(219年)に亡くなっているので、正確には後漢末期の将軍が正しいでしょう。今回は呂蒙の死因について、正史『三国志』と小説『三国志演義』の両方から検証していきたいと思います。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
呂蒙って何者?
まず、呂蒙について知らない読者の皆様もいると思われますので簡単に説明していきます。
「晃、お前に言われなくて知っている。眼帯を付けているメイド服の可愛い女の子だろう」
いや、それは『一騎当千』の呂蒙・・・・・・
マンガと史実が混ざっている読者の皆様がいるので、やっぱり丁寧に解説します。呂蒙は孫権の兄の孫策の時から仕えた将軍であり、若い時は勉強もしないで戦だけしていたので母親を困らせていたようです。
要するに、ゴリゴリのモーレツ軍人で脳筋男。呂蒙があまりにも勉強しないので孫権が、「少しは勉強したら」と言いました。ところが、主君のありがたい言葉に対して呂蒙は「勉強するヒマがありません」と返答します。こんなの1人はいますよね、読者の皆様の学校や職場にも。
何か理由を付けてはサボろうとする人間が・・・・・・
でも、孫権はめげずに説得を続けます。
「別に学者みたいに勉強しろと言っているんじゃないんだよ。ただ、ほんの少し本を読む程度でいいんだよ。私も忙しい中で色々な本を読んで大いに利益になることがあった・・・・・・」
というわけで、説得された呂蒙は早速勉強スタート。
時は流れて建安15年(210年)に軍の責任者である周瑜が亡くなり、魯粛が後任となります。魯粛が軍の様子を見にいくと、呂蒙は以前とは全く違っており文武両道の天才でした。
以前と天と地の差だったので、魯粛はすごく感動しました。ただし、呂蒙は子供の時から学問をしていたわけではないので、「筆記」は出来ませんでした。
呂蒙死す1 突然の病死
建安22年(217年)に魯粛が亡くなり、呂蒙が軍の責任者になります。魯粛の死後、孫権が早速手をつけたのは荊州問題です。孫権は蜀(221年~263年)の劉備と以前から荊州をめぐって争っていました。
どうしても武力で解決したかった孫権ですが、魯粛が許しません。魯粛存命中の間は平和的に交渉が行われました。しかし、魯粛も亡くなったので孫権は武力で解決することに決定。
建安24年(219年)に孫権は魏(220年~265年)の曹操と秘密条約を結び荊州を攻撃しました。荊州の責任者である関羽は油断して、呉と魏の連合軍により討たれました。呂蒙はこの時に、呉のナンバーワンの功労者となります。
やったね呂蒙!
・・・・・・と言いたいところですが、同年には亡くなりました。
正史『三国志』の記述は、すごくあっさりとしており、なぜ呂蒙が突然亡くなったのか詳細には記されていません。筆者の推測の域ですが、過労死だったのではないのかと思います。
呂蒙死す2 ホラー映画レベルの死に方
こちらは小説『三国志演義』の呂蒙の死因。関羽を討った後に呉では宴会が開かれますが、そこで呂蒙の様子がおかしくなります。呂蒙は突然、孫権に襲い掛かると「孫権・・・・・・俺は関羽だ・・・・・・貴様に討たれるとは無念だ」と叫びます。
次の瞬間、呂蒙の全身から血がドバっと噴き出て、呂蒙はそのまま死にました。
「これは三流のホラー映画か?」
読者の皆様の言いたい意味は分かりますが、書いていたので仕方ないです。ちなみにマンガ家の横山光輝氏は、この話を省いていました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が正史『三国志』と小説『三国志演義』から見た呂蒙の死因でした。呂蒙は努力をして成りあがったので筆者は割と好きなキャラクターです。ちなみに、『横山光輝 三国志』では最初はしゃべりもしないモブキャラなのに、関羽討伐の時期になると、いきなりペラペラとしゃべるキャラに変身します。
ある意味不気味です・・・・・・
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