今回は蜀の名将が一人、趙雲の死因についてのお話です。この趙雲ですが、三国志の中でも高い知名度を誇り、更に好き!という人も多い人気の武将の一人です。
しかしいざ三国志を紐解き見ていくと、趙雲の記述って……という気持ちになる人も少なくはないのではないでしょうか。ですがそんな中でも趙雲が後世に何を残したか、それを今回は彼の死因から読み解いてみたいと思います。
この記事の目次
三国志の趙雲の死因は少ない!
さてまずは一般的に正史三国志、と呼ばれる歴史書、三国志の蜀書、関張馬黄趙伝の中の趙雲の伝を見ていきましょう。趙雲の死についての記録は以下の文章になります。
「七年卒,追諡順平侯」
……少ない!つまり建興7年(229年)、に没し、順平侯の諡を追贈された……これだけです。三国志はあくまで記録のための歴史書、とはいっても、これはかなり簡素な記録。とは言え戦死という記録ではないので、おそらく病死では、という想像はできますね。
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趙雲別伝に趙雲の死因は載っているのか?
そこで趙雲と言えば、という存在である趙雲別伝の方を見ていきましょう。こちらには趙雲に追贈された諡、順平侯についての話を見ることができます。この趙雲別伝によるとこれは姜維の上奏によるもので、順は「「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者」平は「仕事をするのに秩序がある者」「災禍・動乱を平定すること」を称した言葉であり、この諡号が趙雲殿には至当、ということです。
……しかしながら、趙雲別伝には趙雲の死因について詳しい記録はありません。
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三国志演義では趙雲はどんな死因を遂げたのか?
それならば、見てみることにしたのは三国志演義!三国志演義はあくまで小説ですが、ここでどのような死因とされているかも気になる所ではないでしょうか。エンターテインメントの三国志演義では病死とされた武将でも華々しい死に場所を用意したとばかりに戦死にされていることが多いのですが、では趙雲は?
と、結果を知っている人も多いでしょう、趙雲の子供たちが諸葛亮に趙雲が死んだことを伝えて退場です。三国志演義ですら趙雲は死因不明、というか、おそらく病死、という演出です。ここにどういった意図があるのか?という所で、ある「趙雲の死因」をご紹介しましょう。
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驚きの趙雲の死因、妻によって殺害された
ここで民間伝承による、趙雲の死因をご紹介します。なんとこの死因「趙雲の妻によるもの」なのです……!とは言っても愛憎渦巻くドロドロしたものではなく、
「長く戦いの中に身を置きながら体に傷一つなかった夫に驚いた奥さんが、戯れに刺繍針で趙雲の体を突いた所、血が止まらなくなり趙雲は死んでしまった」
というお話……つまりこの民間伝承を信じると、趙雲は出血死が死因となるのです!
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趙雲の死因、ある武将との共通点
いくら民間伝批とは言っても、驚きの死因ではないでしょうか。戦で深手を負ってからの出血死、ならば往々にしてありそうではありますが、刺繍針で突いたら出血死、と言われるとそんなことって?と思ってしまいますね。
これは趙雲が何やら謎の奇病にかかっていたのか、それとも晩年に免疫不全的な状態であったのか……色々と考えを巡らせたくなりそうですが、ここで一つ思い出してほしい日本の武将がおります。
生涯無傷、万夫不当の豪傑にして忠臣
「家康に、過ぎたるものが二つあり」そう謳われた花も実もある猛将にして忠臣、本田忠勝。彼はその生涯において大小合わせて57回の合戦に出陣するも、一度も傷を負ったことがなかったと言います。
そんな本田忠勝の逸話に「死ぬ数日前に小刀で指に掠り傷をおい、自分の士気を悟った」というものがあるのです。生涯に傷を負わなかった人間がたった一つの傷を負い、そこで生涯を終わらせた。そこには色々な含みがあると思いますが、筆者はそこに「人々の夢」があったのではないかと考えました。
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趙雲の死因が出血死だった理由
長い戦いの中で一つも傷を負わなかった、それは勇将であり、猛将であり、名将であり、そしてどこか「人ではない」何かを感じさせます。事実、関羽のように死後、神へと至った武将も数多くいましたね。しかし彼らは、たった一つの傷で死んでしまった。それは人ならば、誰でもあり得ることです。
趙雲とは、そういった存在だったのではないでしょうか。とても優秀で、主に長く使える忠臣で、どこまでも瀟洒で、数多の戦場で無敗で。それでありながら、人のようにたった一つの傷で命を落とす。民間伝承に込められたのは、もしかしたら趙雲もまた「人」である、という考えではないかと思うのです。蜀を長く支えた名将、まるで欠点がないような人物、されども、間違いなく人であった。
人々は趙雲を敬愛し、尊敬し、それで尚、もしかしたらあのようになれるかもしれない。そういう一線を趙雲に抱いたからこそ、趙雲の死因に「出血死」があるのではないかと思ったのです。
三国志ライター センのひとりごと
割と関羽やら張飛やら。問題点を抱えている武将たちの中で、趙雲は劉備と長い付き合いながら大きな問題は起こさず、しかしずっと真摯に仕えていた極めて優秀な武将であると思います。
そんな趙雲は人々の憧れであり、それでいて人から離れすぎない、目標のような、人生の指針のような存在だったのではないでしょうか。
憧れはしても、どうかいつか届くような存在であってほしい。趙雲の死因から、そんな人々の思いを考えてみた筆者でした。どぼーん。
参考:蜀書趙雲伝 趙雲別伝