長生きしただけで多大な貢献だった?趙雲さえも早世していたら蜀がどうなっていたか考えてみた

2022年4月13日


 

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男気溢れる趙雲

 

五虎将軍(ごこしょうぐん)の中で「長生きキャラ」として認知されているのは、やはり趙雲(ちょううん)でしょう。もっともこの趙雲、厳密な生没年が異論異説だらけ(=よくわからないことだらけ)な人なので、亡くなったときにけっきょく何歳だったのかも不明瞭だったりするのですが。

 

北伐する孔明

 

少なくとも、三国志(さんごくし)のかなり初期の戦いから登場していて、諸葛亮(しょかつりょう)の北伐まで登場してくるわけですから、「現役時代がかなり長かった武将」であることは間違いありません。そして何かと唐突に死亡することが多い(!)蜀建国の英雄たちの中にあって、この「長生き」キャラという特性は、それだけで目立ったキャラ属性といえるのではないでしょうか。

 

寿命を全うした70歳の趙雲

 

しかし一部の失礼な方は、「趙雲と言ったって、物語の後半には、たまにしか出て来なくなるよね。もう老害だったんじゃないの?」などと思っていたりするかもしれません。いやいや、とんでもない!

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

もし趙雲が、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)と同じくらいのタイミングで早世していたら、いったいどういうことになっていたのか。蜀はおそろしいことになっていたのではないか。それを考えることで、「老いてなお欠かせない人材」だった趙雲の晩年の存在感に、思いを馳せてみましょう!

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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もし趙雲が早世していたら夷陵の戦いの後詰めがヤバかった!

ブチギレる劉備

 

まずは夷陵(いりょう)の戦いのことから始めましょう。この戦いは、関羽を失い張飛を失った時の劉備(りゅうび)が、やぶれかぶれのように発動させた作戦ですが、この遠征軍に趙雲は参加していません。そもそも、趙雲はこの出兵に反対だったのです。

 

劉備を徹底サポートする趙雲

 

そんな経緯もあって、趙雲は自分の部隊を率いて、後詰めに回っていたようです。で、結果は、劉備軍の大敗。しかし悲惨な状態で逃げ帰ってきた劉備軍に対し、孫権(そんけん)軍は無理な追撃をしませんでした。なぜか?

 

劉備の留守を預かっていた後詰めに、孔明(こうめい)と趙雲が残っていたからというのが、ひとつの理由にあるのでは?君主の劉備がほうほうの体で逃げ惑っているとはいえ、それが孔明と趙雲がコンビで守っている領内に逃げ込んだとなれば、孫権軍も追撃はかなり躊躇するでしょう。

 

もしここで、趙雲までもが関羽張飛と同じころに、既に病死していたら?

夷陵の敗北は、より決定的な蜀軍の破滅につながっていたかもしれません!

 

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夷陵の戦い

 

 

 



もし趙雲が早世していたら馬謖の失態はもっとヤバかった!

馬謖に地理を伝える諸葛亮孔明

 

もっと重要なのが、諸葛亮孔明の北伐への参加です。ここで有名なのは、第一次北伐の転換点となった、街亭(がいてい)の戦いのこと。

 

泣いて馬謖を斬る諸葛亮

 

「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の故事の元になったように、ここでの蜀軍は、馬謖の作戦ミスによって深刻な大敗を喫します。

 

敵に囲まれる馬謖

 

もともと魏軍よりも兵力では劣っていた蜀軍の最前線が大敗したのですから、魏軍の追撃を受ければ、より致命的な大崩壊になっていたところでした。ここでしんがりの軍をまとめ、巧みに指揮をとり、魏軍に追撃のチャンスを与えず蜀軍の撤退を成功させたのが、趙雲だったとされています。もし趙雲が既にいなかったら、この北伐の失敗による蜀の崩壊は、より致命的なレベルになっていたのではないでしょうか?

 

五虎大将軍の趙雲

 

昔より、こんなことが言われます。戦場の指揮官にとって、勝ち戦の指揮を執るよりも、負け戦のときに上手に撤退をまとめ、被害を最小限にするほうが難しいと。この点、晩年の趙雲は、いかにもベテランらしく、負けた時の撤退戦のとりまとめに、リーダーシップと能力を発揮していたようです。これはフロントで大暴れする武将よりも、はるかに有能な指揮官と評価されてよいのではないでしょうか?

 

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馬謖

 

 

もし趙雲が早世していたら人事面でエラく扱いにくい男がしゃしゃり出てきていた!

魏延

 

もし趙雲が早世していたら、もうひとつ、蜀軍では困ったことが起きていたでしょう。趙雲というタガが外れたら、蜀の軍事面は、もっと早い段階で、魏延(ぎえん)の独走状態になっていた可能性が高いのです!

 

蜀の魏延

 

魏延ファンの方には申し訳ないですが、どうもムラが大きく、かつ、周りからの嫌われ具合がハンパない魏延。この魏延がそれなりに言うことを聞いて組織内で機能していたのは、趙雲という大ベテランが存命だった頃までではないでしょうか?

 

もし趙雲が早世していたら?

五虎将軍全員不在の中では、ベテラン将軍として、実績も知見もあるのは魏延!

 

仲間ごと孔明に焼かれそうになる魏延

 

けっきょく魏延は、のちに諸葛亮に手の込んだ形で抹殺されることになりますが、趙雲がいなければもっと早い段階で、魏延が組織を壊す暴走を開始していた可能性があるのです。衰退苦しい時期の蜀軍にこれはますます厳しい!

 

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魏延特集

 

 

まとめ:長生きしてくれただけで蜀に多大な貢献をした趙雲!

自分の人形を操る趙雲

 

趙雲がもし早世していたら、蜀の不安要素はこれだけ大きくなっていたところでした。むしろ逆に趙雲が、もっともっと、百歳くらいまでの大長寿だったなら?魏延が殺されるような内紛もなく、姜維(きょうい)の独断的な北伐もなく、蜀の軍事面はもっとぶあつい安定感になっていたかもしれません。

 

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趙雲

 

 

三国志ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

晩年の活躍が少ないようでいて、こう整理すると、趙雲は長生きしたというだけで蜀の衰亡を遅らせた多大なる貢献者だったのかもしれません。生きていてくれるだけで後進の世代の頼りになる。

 

ポイント解説をするYASHIRO様

 

晩年の趙雲はそんな存在になっていたのかもしれないと思うと、若い頃の武勇ばかりがフォーカスされがちな趙雲の評価も、また変わってくるのではないでしょうか?

 

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とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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