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[歴史の闇]諸葛亮の死後、魏延と楊儀が遭遇した衝撃の事実


夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)(しょく)(221年~263年)の丞相です。()(220年~265年)と死ぬまで戦ったことから、蜀の忠臣として知られています。

 

孔明のテントがある野外のシーン

 

蜀の建興12年(234年)に諸葛亮は魏と交戦中に亡くなりました。その後、彼の後を継いで丞相に就任したのが蒋琬(しょうえん)です。蒋琬の丞相就任前後に蜀では血なまぐさい政争が起きています。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

今回は正史『三国志』をもとに、諸葛亮死後の血なまぐさい政争を解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魏延の死

過労死する諸葛孔明

 

建興12年(234年)に諸葛亮は魏と対決中に亡くなりました。

 

孔明の遺言を聞きに成都から五丈原まで走った李福

 

諸葛亮は亡くなる前に李福(りふく)という人物に後継者は蒋琬にすることを伝達しています。ところが、こういった人事に不満の人物がいました。

 

蜀の魏延

 

魏延(ぎえん)です。

 

魏延

 

魏延は劉備(りゅうび)の代から仕えている武将です。張飛(ちょうひ)を差し置いて、漢中の責任者に任命されたことがあり、劉備からの信頼は絶大でした。

 

魏延からの提案を却下する孔明

 

しかし、諸葛亮とは北伐における作戦において馬が合いませんでした。そのため、諸葛亮に対する不平不満を述べていました。

 

仲の悪い魏延と楊儀

 

諸葛亮の死後、魏延は軍を掌握しようと企みます。しかし、諸葛亮の側近の楊儀(ようぎ)は急いで劉禅りゅうぜん)に魏延の反逆を訴えました。一方、魏延も楊儀が反逆したと劉禅に訴えました。

 

蒋琬(しょうえん)

 

劉禅はどっちが本当のことを言っているのか分かりません。この時に決断したのが蒋琬です。

 

蒋琬(しょうえん)

 

蒋琬も諸葛亮の側近の1人なので、魏延がどういう人物なのか知っていました。蒋琬は楊儀を信じることを劉禅に訴えました。その結果、魏延討伐の命令が下されて魏延は討たれました。

 

 

 

楊儀の死

楊儀

 

ところが楊儀も魏延の死から間もなく世を去ります。楊儀も劉備の時から仕えていた人物でした。兵糧の計算に関しては一流の腕前であることから、劉備・諸葛亮の両方から愛されていました。

 

ただし、性格は陰険で心根が狭い男だったので、諸葛亮は後継者にする気が無かったようです。そんなことを全く知らない楊儀は魏延を討伐した功績を人に誇らしげに語っていました。

 

「諸葛亮さんの後継者と言えば、もう俺だよ俺」という感じだったようです。

 

ところが、結果は楊儀の期待を裏切るものでした。諸葛亮の後継者は何度も言っているように蒋琬になったのです。一方、楊儀は「中軍師」という位を与えられました。ところが、これは名前だけは良さそうなのですが中身は何も無い官職です。

 

おそらく、楊儀の権力を削ぐために用意したと筆者は考えています。こうして楊儀は毎日、出社してもやる事の無い社内ニートになったのです。実際に彼のため息や舌打ちが職場には、響いていたようです。次第にイライラしてきた楊儀は、酒を飲んでうっ憤を費禕(ひい)に話しました。

 

「俺は蒋琬よりも年齢や官職だって上だったんだぞ!それなのに、なんで俺がこんな目にあわないといけないんだ!」

 

費禕

 

ところが、費禕はこれを劉禅に密告しました。実は費禕は蒋琬と仲が良かったのです。怒った劉禅は楊儀の官職を剝奪して庶民に落とします。「庶民」と言っても現代の人が考える庶民ではありません。地主レベルです。

 

庶民に落とされた楊儀は恨みが収まらず、ブツブツと文句を言い続けます。これがさらに劉禅の耳に入り、とうとう逮捕になります。しかし逮捕の直前に楊儀は自害しました。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

魏延と楊儀は諸葛亮の存命中は、北伐に欠かせない人材でした。だが、2人の関係は水と油であったので諸葛亮は対応に苦労していたようです。諸葛亮・魏延・楊儀の3人の死後に丞相となった蒋琬は、亡くなるまで魏に対しての北伐を一切行わずに蜀の内政に対して努力しました。

 

これは筆者の推測の域ですが蒋琬は蜀を安定させるためには、まず上記の3人に消えてほしいと望んでいたのではないでしょうか。

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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