今回は三国志の蜀の武将の一人、黄忠の死因についてお話します。まず断っておきますが、正史と呼ばれる三国志と、三国志演義では度々死因が違う人物が存在し、そして黄忠もまたその一人です。
これは歴史の記録とエンターテインメントの違い、とも言えますが、黄忠にはただそれだけではない思い入れを感じさせる描写が三国志演義には込められているのです。少なくとも、筆者はそう感じました。その点に注目しつつ、黄忠の死因について紹介していきたいと思います。
この記事の目次
歴史書「三国志」の黄忠の死因とは?
さてまずは正史三国志の方を見ていきましょう。
「明年卒,追諡剛侯」
翌年亡くなり、剛侯の諡を追贈された……黄忠の死についての記録は、これだけです。
あくまで正史三国志は歴史書、なので記録に過ぎないのですが関羽、張飛、馬超、趙雲と共に立てられている伝では、黄忠の記録はかなり簡素です。
趙雲もかなり簡素ですが、趙雲は趙雲別伝が注釈として入っている分、黄忠の方が簡素に見えてしまうんですよね。
一番高い可能性としては、病死か、老衰か
因みに翌年、とありますがこれは220年のことです。また黄忠には子供がいたようですが、この子は早世していたため、黄忠の家は断絶したようです。
黄忠の家が断絶したことが、正史三国志において趙雲のように注釈が入る部分がなくなってしまい、簡素に見えてしまう原因の一つかもしれません。ともあれ戦死という訳ではないことから、病死、もしくは年齢による死亡ではないか、というのが黄忠の死因の予想です。
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黄忠は、本当に「老将」であったのか?
ここで一つ、もう一度考えたいのが黄忠は本当に老将であったのか、ということ。三国志演義では正に「老いて益々盛ん」なスーパーおじいちゃん黄忠ですが、正史でも本当に老将だったのか?黄忠の年齢は生年が不明なためはっきりとは分かっていませんが、正史にこのような記述があります。
劉備は漢中王になった時、黄忠を後将軍に任命しようとしました。
そこで諸葛亮が「張飛殿や馬超殿たちは黄忠殿の活躍を見ているので文句は言わないでしょう、しかし荊州の関羽殿は納得しないでしょう」と言います。この諸葛亮の不安は的中し、関羽は「老将と同列の前将軍だと!?」と怒るのですが……少なくとも、関羽から見て老将、という年齢だったことが分かります。
ただこのシーン、三国志演義でもそのままなので、三国志演義の関羽と黄忠の関係からみるとちょっと違和感があるシーンでもあるんですよね、余談ですが。
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三国志演義の黄忠の死因
では三国志演義の黄忠の死因というと、戦死です。その死に様は中々に涙を誘い、英雄の最期、そして英雄譚の終わりに近付いていくような悲痛さが感じさせられます。
三国志演義の黄忠は、夷陵の戦いにも参戦しています。しかし夷陵の戦いに向け、父親の仇を討たんと参戦してきた張苞、関興といった若い武将たちの活躍を称え、老兵たちを軽んじる発言をしてしまいました。
これに何かを感じたのか黄忠は僅かな手勢を率いて出陣、呉の潘璋を見つけ関羽の仇を討たんと攻め寄せるも、馬忠の放った矢を受け、この傷が元で戦死となりました。軽んじられ、功を焦っての無謀な死だったのか。老体に無茶をしての死となったのか。無理であっても、戦場での死を望んだのか。また弓矢の名手とされる三国志演義の黄忠の死因が、矢を受けての……というのも、何だか悲痛な気持ちになりますね。
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三国志演義の黄忠が与えた影響
ここで三国志演義の黄忠について少しお話をしましょう。
黄忠が元は韓玄の配下であったこと、その後、劉備の入蜀の際に活躍をすること、そして定軍山での活躍などは事実ですが、関羽との互角の一騎打ちなどは三国志演義の創作です。
この老将でありながら関羽との一騎打ちを互角に、更にはお互いを武人として認め合う一幕もあり……三国志演義の中でも、かなり印象に残る、ロマンとドラマを含んだシーンなのではないでしょうか。事実、どちらかというとこの三国志演義の黄忠のイメージの方が、黄忠、として人々の心に強く残っているのです。
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「老いていよいよ壮」
老将なれど武勇に優れ、名将の一人として活躍し、そして忠義に溢れた武人。中国では老いて益々盛んである人をこの三国志演義の黄忠のイメージから、老黄忠と呼ぶと言われています。この年をとって尚、というのは何も黄忠が最初、という訳でなく、後漢書の馬援伝で
「男子たるもの苦しいときには意志を強く持ち、老いてはいよいよ壮(さかん)でなくてはならない」
と語るシーンがあります。このように古代中国では、年を取って衰えるのではなく、益々壮健さを増すかのような逞しさが男子には求められていたのでしょう。そしてそれを体現したような人物が、黄忠、という訳です。
黄忠の生涯と死因
実際に黄忠がどのように亡くなったかは、正史では分かりません。しかし記録にないため、戦死ではなかったのでしょう。ではその黄忠を戦死としたのは、人々の願いの体現もあったのではないでしょうか。
事実、関羽や張飛、趙雲や馬超と並び立った黄忠。老将呼びされているので、恐らく彼らよりも年かさであったのは確定でしょう。
そんな人物に、布団の上で死んでほしくない!……というと、ちょっと酷いかもしれませんが。あくまで戦いの中で、若者に最期まで負けないという意地を見せながら、そして主君である劉備に看取られて。老将戦場に死す。その姿、老いて益々盛ん。戦死という死因は黄忠に付けられた、最大限の賛辞であったのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
前述したように、正史の黄忠もしっかりと活躍し、蜀の国に貢献しているのですが。それでも、家計が断絶したからなのか、その記録はやや簡素に見えてしまいます。
しかしそこからどう黄忠というキャラクターを膨らませるか、で、関羽と交流をさせたというのは、ある種名采配ではないかと思います。そうして老黄忠という言葉まで生まれるほどに愛され、誰もがそういう風に年を取っていきたいと願ったとするなら。
黄忠というのは、理想の年の取り方をした武将だったのかもしれませんね。どぼん。
参考:蜀書黄忠伝 後漢書馬援伝