袁術は袁紹の従兄、もしくは異母兄に当たる人物ですが、皆さんはどんな人物のイメージでしょうか。
もしかしたら「いきなり皇帝名乗って曹操や袁紹にフルボッコされて負けた人」なんて思っていませんか?
悲しいことにそれは全部正しいのですが、そもそも彼はどうしていきなり皇帝を名乗ったのか。匡亭の戦いでの敗北と共に、もう一度袁術という人物を振り返ってみたいと思います。
匡亭の戦いが始まるまでの袁術
匡亭の戦いの前までの袁術は、実はかなり力があった存在です。
公孫サン、孫堅、陶謙などの実力者たちを従えていたので袁家、というと袁紹よりも立場が上にありました。
対する袁紹と言えばこの頃、董卓との戦いで弱っており、同盟者と言えばまだまだ無名な曹操。圧倒的な力の差を見せつける戦いになるはずだった、それが匡亭の戦いです。
しかしご存知の方も多いと思いますが、この戦いで袁術はボロボロに負けます。
孫堅は戦死、公孫サンも袁紹に完膚なきまでにボロ負けし、残った陶謙だけでどうなるはずもなく、しかも陶謙はその後曹操に…袁術自身も補給路を断たれて曹操にボロボロにされてしまいました。それはもう見事な連戦連敗です。
しかし袁術という人物に止めを刺したのはこの連戦連敗ではありません。この後に起こる、というよりも起こしてしまうある出来事です。
袁術、なぜかいきなり皇帝を名乗る
197年の正月に袁術は自らを中国神話の舜の血筋を引くと「自称して」仲王朝を起こし、寿春を都と定めました。ですがこんなことが認められる訳がありません。
皇帝というのは言ってみれば天命が決めるものです。ちょっと分かりにくいですが「徳」が重要になります。皇帝に徳があるから世の中が正しく回り、皆元気に安心して暮らせるのです。
逆に皇帝に徳が足りないと世の中が乱れます、天変地異も全部皇帝に徳が無いから起こります。もちろんそんなことはありませんが、当時の中国ではそう考えられていました。
後に曹操の子の曹丕が皇帝になりますが、これは曹操が丞相として如何に民衆に「徳」があると認められるまでに貢献していたからこそ禅譲ができたのです。つまり血筋によっても徳は受け継がれ、皇帝も受け継がれるのです。
この時、袁術はそこまで国に対して貢献していません。しかも皇帝の血筋の人物は曹操がしっかり保護しているので、袁術は猛反発と顰蹙をかってしまいました。
何せ可愛がられた恩義から裏切ることを躊躇していた孫策が、袁術から離反してしまったくらいですから、相当なものです。
どうして袁術は皇帝を名乗ってしまったのか?
ではどうして袁術は皇帝を名乗ってしまったのでしょうか。
実は元々袁術は献帝を迎えいれて保護するつもりでした。そのため袁術は献帝の代理人として既に味方や部下に爵位を与えていたのです。
しかしその献帝は曹操に保護されてしまいました。
ここからはあくまで推測になります。献帝がいないのなら袁術の与えた爵位は無意味になります。
悪意を持ってみれば言い出したから引っ込み難くなって自ら皇帝を自称した。好意を持ってみれば自分に着いてきてくれた人たちに何とかして報いるために皇帝を自称した。どちらとも考えられる結論だと思いませんか?
しかし「袁術はそんなにできた奴じゃない!」と思われる人もいると思いますので、最後にちょっと袁術の見方の変わるエピソードも紹介しましょう。
袁術を見直してみよう?エピソード
陸績という子供がいました。彼は呉の陸遜の同族で、まだ袁術が生きていた頃にはその配下にいたようです。
この時、何の縁かは分かりませんが、彼は袁術の食事に招かれて出された蜜柑を隠し持って帰ろうとしました。しかし退出しようとした時に袖から蜜柑が零れ落ちてしまいます。
しかし袁術は怒らずに「お前はまだ幼いのにどうしてそんな盗人のような真似をするんだい?」と尋ねると「美味しそうな蜜柑だったので母に食べさせたかったのです」と陸績は答えました。それを聞いた袁術は陸績の親孝行を絶賛したと言います。
いかがでしょうか。
このエピソードを見ると袁術という人間は傍若無人な人物には見えませんよね。むしろ子供のやったことを頭ごなしに咎めるのではなくまず諭し、理由を聞く真っ当な人間に見えます。ちょっと袁術のイメージが変わっては来ませんか?
三国志ライター センの独り言
袁術はどうしても過小評価されているというか、戦った相手が袁紹や曹操という覇者と戦った人物であるが故に、比較されているように見受けられます。
しかし小さなエピソードから、袁術の別の見方もまた、できるのではないでしょうか?
その上でもう一度袁術が皇帝を名乗った理由を推測すると…不思議と何故か、憎めないような人間に感じられるからおもしろいですね。
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