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[分析]蒼天すでに死す!黄巾の乱が英傑たちに与えた影響

2023年12月4日


暴れる黄巾党と張角

 

黄巾の乱(こうきんのらん)三国志(さんごくし)の始まり、そう思っている人も多いでしょう。

事実、黄巾の乱は三国志の英傑たちのデビューの場であり、力を付けていった戦いでもあります。

 

曹操

 

今回はそんな黄巾の乱で特にその後に影響を受けることになった英傑たちと、彼らが得たものを紹介していきましょう。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも黄巾の乱が始まったきっかけは?

王族ボンビーから一転セレブ03 董太后、霊帝

 

元々、桓帝(かんてい
)
という先代帝に子供がいなかったことがある意味で悲劇の始まりです。

 

西洋が好きな霊帝

 

跡継ぎは桓帝(かんてい)皇后(こうごう)たちによって擁立(ようりつ)された霊帝(れいてい)、彼が資金を手に入れるために官位売買(かんいばいばい)を始めました。つまりお金さえ出せば地位が手に入る時代になったのです。

 

霊帝から益州統治を頼まれる劉焉

 

その上、宮中では霊帝(れいてい)を擁立した一派と、桓帝健在の頃からの重鎮である宦官(かんがん)たちとの間に権力争いが行われていました。この頃の宮中での権力と言えばお金そのもの、つまり財力です。

 

餓えた農民(水滸伝)

 

財力を得るために官位の売買が激しくなる、高い官位が欲しい地方役人たちなどが庶民に重税を課して資金を絞り取る、という悪意のスパイラルが始まり、そこに天候不良、異民族の侵攻などが重なって時代は正に暗黒期となっていたのです。

 

張角は歴史の表舞台に登場

 

そこに現れたのが黄巾族、彼らは張角(ちょうかく)を宗主とした集まりで各地で奇跡を起こして人々を救い、貧窮していた人々を集めて一大勢力となりました。彼らを討伐するために宦官たちと霊帝一派は一時的に休戦して討伐軍を作ります。

 

太平道の祖・張角(黄巾賊)

 

この戦いが黄巾の乱です。ではその黄巾の乱で名を挙げていった三国志でも有名な武将たちを見ていきましょう。

 

 

 

精鋭の兵たちを手に入れた曹操

黄巾賊を退治する曹操

 

曹操は黄巾の乱で手柄を挙げたことで騎都尉(きとい)に任命されています。

 

黄巾賊を撃破する皇甫嵩

 

その後、皇甫嵩(こうほすう
)
と共に黄巾賊の残党として暴れていた潁川郡(えいせんぐん)の賊を討伐しました。この賊討伐こそが後の曹操の主力とも言える精鋭部隊である青州兵(せいしゅうへい)を手に入れた戦いです。

 

曹操が黄巾党が仲間に!

 

因みに黄巾賊の残党は兵士が30万、非戦闘員が100万人ほど曹操に降伏したと言われており、その数の多さが窺い知れます。この数が残党と言うのですから、黄巾賊がどれだけ大きな集団であったかも想像できますね。

 

黄巾賊

 

そしてその残党を手に入れた曹操、この時代は人こそ力と言っても良い時代ですから、曹操はこの時点でかなりの力を蓄えたと言っていいでしょう。

 

 

 

ここから天下に出ていく劉備三兄弟

三国志の主人公の劉備

 

一括りにしてしまっていますが、この黄巾の乱で劉備(りゅうび)の名を見ることができます。「劉備は義勇兵を率いて校尉鄒靖の下で黄巾賊を討伐、武功を立てて安熹県(あんきけん)の県尉に任命された」となっています。しかしその一方でこの校尉(こうい)鄒靖(すうせい)に関してはどのような人物なのか分かっていません。

 

後漢書(ごかんしょ)によると辺境近くで暮らしていた人物であること、異民族について詳しかった人物であったという記述しか分かりませんでした。しかしこの人物の下で功績を挙げたことで、劉備は大きく出世します。

 

劉備と関羽と張飛の桃園三兄弟

 

と言うのも劉備も義弟である関羽(かんう)張飛(ちょうひ)もこの時点では曹操(そうそう)孫堅(そんけん)に比べればまだまだ無名と言っても良い存在。ここで名を挙げて昇進できたからこそ、三国志を代表する一人、そして将軍として有名になることができたのでしょう。

 

 

 

大将軍のその後の運命…何進

何進

 

黄巾の乱で名を挙げた訳ではありませんが、ここで紹介しておきたいのが黄巾の乱の討伐軍大将軍であった何進(かしん)。何進は異母妹が霊帝(れいてい)の皇后になったことから引き立てられた人物で、元々は屠畜業(とちくじょう
)
を行っていました。

 

何進

 

彼自身はそこまで積極的ではなかったようですが、妹が皇后になっていたことで宮中の政争にも関わっていき、最終的に殺害されます。

 

盧植と何進

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)では妹の七光りで出世した無能のように描かれていますが、実際にはそこまで酷い人物ではなく、むしろ黄巾の乱では首都の防衛をミスなく全うし、前線にも補給輸送を行ってサポートするなどしっかりと功績も挙げている人物です。

 

また部下たちにも優しく思いやりを持って接していたために彼が殺害された時に多くの兵士たちが敵討に参加したと言われています。何進自体は黄巾の乱のその後に殺害されましたが、彼の死はある意味で三国志と言う時代の始まりを表しているような気がします。

 

義妹の引き立てによって出世したと言えど、当人に落ち度はそれほどなく、さりとてずば抜けて優秀でもなく…そういった人物では既に生き残れない、そんな世代になってきていたのでしょう。

 

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

黄巾の乱と言うと、三国志の始まりの戦いというイメージがあります。

 

曹操と劉備

 

そしてこの戦いがあったからこそ、数々の英傑たちが天下に名乗りを上げました…そう、漢と言う国の終焉と共に。そう思うともの悲しいものがありますが、ここから全てが始まってくると思うと同時にワクワクもしてきます。

 

曹操と黄巾賊

 

黄巾の乱で名を挙げた、つまりまだ無名に近い武将たちが今後どれほど躍進していくのか、それを見守る楽しさが黄巾の乱にはあると思いますね。

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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