今回は天才学者と薬物中毒の患者という二面性を持つ人物・魏の何晏について取り上げます。最初に何晏について紹介します。天才学者としての何晏と薬物中毒患者としての何晏についてそれぞれ取り上げます。
何晏とは
何晏は魏の政治家であり、学者です。何晏の祖父ら身内は殺害され、生母が曹操の妾となりました。その関係で曹操の養子として引き取られ、育てられました。学問の世界で活躍し、多くの著書を残しました。曹叡の死後、曹芳が即位すると、何晏は後見役となります。249年、司馬懿が政権内部でクーデターを起こし、何晏らは逮捕され、処刑されました。
天才学者としての何晏
ここでは何晏の学者としての業績を取り上げます。論語の注釈書『論語集解』の著者として有名で、哲学と道徳を結び付けた「玄学」という学問を興しました。他に、何晏の得意な抽象的な議論を活かして、玄学において抽象的な議論のぶつけ合う「清談」を始めました。清談とは古代中国人による哲学的な談話を意味します。
哲学的な談話をすることで政治的な影響を排除することができました。清談の内容が政治的なものから離れた要因として次のことが挙げられます。当時、後漢から魏、魏から晋へと国が相次いで変わった時期で、乱世であったことから政治に関する議論をすると身の危険につながる可能性がありました。清談に参加した学者は自分の身を守るために知識人たちは政治とは関係のない議論をしました。
清談から有名になった竹林の七賢という7人の学者(阮籍・嵆康・山濤・劉伶・阮咸・向秀・王戎)がいます。実際に7人の学者がそろって清談をしたという記録はありませんが、後世の人々から支持されています。
薬物中毒・何晏
何晏は天才学者だけでなく薬物中毒でも知られていました。何晏は五石散という麻薬を服用していました。この麻薬は向精神薬で、服用すると皮膚を刺激し、体が温まります。効果として虚弱体質の改善できました。一方で副作用もあります。副作用として体が温まらない場合、体内に薬が留まります。体内に薬が留まったままだと中毒で死ぬことがあります。
副作用を起こさないために動き回ることによって体を温めました。当時、体を温めるために動き回ることを散歩と言いました。現代ではウォーキングを意味する言葉で使われていますが、元々の語源は何晏の服用していた五石散にあると言われています。
三国志ライターオフィス樋口の独り言
今回は魏の何晏について天才学者と中毒患者の両面から取り上げました。天才学者・何晏が始めた清談については竹林の七賢と呼ばれる著名な学者が出ています。また、何晏の死後約500年経ってから唐の時代李白が感銘を受け、その様子を詩に残しています。
学者としての業績がある一方で、薬物中毒という残念な一面もありました。何晏が薬物中毒になる経緯について取り上げませんでしたが、健康のためか何かプレッシャーを感じていたのか気になります。他に、何晏についてはナルシストだったというエピソードも残されています。顔を白くして、歩く時にいつも自分の影を眺めていました。清談をしている何晏の姿は化粧をしていたことからナルシストであることを証明しているかもしれません。
最後に、何晏については後に李白に影響を与えた天才学者としての良い面と薬物中毒としての悪い面の2つの側面があるため三国志のファンの中で評価が分かれると思います。薬物中毒という言葉を耳にすると、たとえ有能な人材であったとしてもいい業績が一瞬にして打ち消されてしまいます。私は何晏の学問の発展に貢献したことについては、薬物中毒だったとしても評価するべきだと考えています。
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