【シミルボン】これはヤバいよ!裏三国志 大流行したドラッグ五石散

2016年11月5日


 

シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」専用オリジナルコンテンツです。

 

劉備 曹操

 

麻薬や違法ドラッグの事件が後を断ちません。

芸能界では、それこそ数えきれない程にドラッグで逮捕される人が出ますし

水面下では、一般社会まで広がっていると言われています。

いかにも、現代の病のようなドラッグ汚染ですが、実は似たような薬は

三国志の時代にもあったりするのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志の違法ドラッグは元は漢方薬?

 

三国志の時代から流行しだした違法ドラッグは、

その名も五石散(ごせきさん)と言います。

 

五石散は、鍾乳(しょうにゅう)石、硫黄(いおう)、白石英(しろせきえい)、

紫石英(むらさきせきえい)、赤石脂(あかせきし)の5種類の石を

すり潰し酒に混ぜて飲んだもので、元は歴とした漢方薬です。

 

疫病 村

 

後漢の時代の医師、張仲景(ちょうちゅうけい)が傷寒(腸チフス)の

治療薬として開発したとも言われていて、不老不死や虚弱体質の改善に

効果があると考えられていました。

 

また、五石散を服用すると体温があがり、発汗するので、

食事は冷たいものを食べないといけないという決まりがあり、

そこから寒食散(かんしょくさん)と呼ばれたりもしたそうです。

 



漢方薬を違法ドラッグにした何晏

かあん04

 

しかし、世説新語が引く、寒食散論(かんしょくさんろん)と

いう本によると、このような記述が存在します。

 

※参考文献 世説新語著者: 井波 律子/劉 義慶 出版社: 平凡社

 

寒食散は漢の時代からあるが、それを知るものは少なく

やがて、知る者は絶えて、製法を知る人もいなくなった。

だが、魏の尚書、何晏(かあん)が使用して初めて神効をあらわし、

大いに世の中に広まり、お前、寒食散やってる?が挨拶になった

 

寒食散論という書物は、五石散は、漢の時代からあるが、

それを劇的に広めたのは、何晏だと指摘しているのです。

 

ただの漢方薬が劇的に広まるなんて不思議な記述ですので、

何晏は、本来の五石散の成分をいじり違法ドラッグに変えてしまった

という可能性があるのです。

 

元祖ビジュアル系にして老荘思想のパイオニア何晏

かあん01 曹操と

 

何晏(189?~249年)は字を平叔(へいしゅく)と言います。

彼は、漢の霊帝の外戚、大将軍何進(かしん)を祖父に持ちますが、

西暦189年、祖父、何進も父の何咸(かかん)も、宦官勢力によって

討たれてしまい滅び去ります。

 

何晏は難を逃れた母、尹(いん)氏の手で、宮中で育てられますが、

尹氏の美貌を見初めた、曹操(そうそう)により何晏も我が子同様に、

曹操の屋敷で養育されるようになります。

 

曹操は、才気煥発な何晏を気に入り、

少々の派手な振る舞いも大目に見ていました。

恐らく、父を知らない何晏には曹操は父のように思えたでしょう。

 

何晏は自信に充ち溢れた性格で、また極度のナルシストでした。

元々白かった顔を白粉でさらに白く塗り、女物の衣服をつけて歩き

常に自分の影が崩れないかまで気にしていたようです。

 

曹丕に睨まれて不遇の時代を経るも曹芳の時代に抜擢

撃剣を使う曹丕

 

しかし、曹一族でもないのに、曹一族のように振舞う何晏を

曹操の後継者、曹丕(そうひ)は憎み、自分が即位すると

重要な仕事には何晏を就けませんでした。

 

次の曹叡(そうえい)も、曹丕路線を受け継ぎ何晏は不遇のままです。

 

ですが、西暦239年、曹叡が死んで、曹芳(そうほう)が即位すると

幼少の息子を補佐させようと、曹叡は司馬懿(しばい)と

王族の曹爽(そうそう)の両名を呼んで後見にしました。

 

たまたま、何晏は曹爽と仲が良かった事から、

散騎常侍(さんきじょうじ)、尚書(しょうしょ)に抜擢される事になります。

ここから、何晏の運が開けてきました。

 

何晏は曹爽に吹きこんで司馬懿を遠ざけさせ、

朝廷の実権を曹爽一派で独占する事に成功します。

 

長い間、引きこもっている間に磨いた弁舌と老荘思想

かあん02

 

この曹爽一派が洛陽を支配していた西暦239年から249年は、

曹魏の歴史でも、もっとも退廃が進んだ時期になりました。

 

何晏は、清談(せいだん)という言論のレトリックが得意であり、

詭弁を使って、論敵を打ち負かしては拍手喝さいを浴びました。

 

また、老荘思想を研究した彼は哲学に凝り、朝から晩まで、

仲間と高踏な哲学論争を、酒と違法ドラッグである

五石散を片手に繰り広げていました。

 

それは、現実政治からの逃避であり、ただ、一日、一日を

虚無的に遊び暮らすという、規律が強い儒教思想から抜け出した

放逸を貪るようなものでした。

 

一方で、戦争が大変に多かった当時、明日よりも今日を楽しもうぜという

何晏の思想が、刹那的な洛陽の若い貴族の男女に受けたという事も

否定できない事実でした。

ドラッグの流行の背後には、必ずこのような社会不安があるようです。

 

五石散の副作用とは?

楊儀と魏延

 

何晏が成分をいじった五石散は、強い向精神作用を産みだしたようです。

つまり、気分が高揚して、万能感を味わえるハイの状態です。

一方で、副作用として、皮膚が炎症を起してただれたり、

激しい発汗作用を起し、それは、真冬でも褌一枚で

冷たい石に抱きつかないと暑くて眠れない程だったようです。

 

充分に熱を発散しないと生命に関わるケースもあったようで、

ここから、五石散をらす為にく、散歩という言葉が産まれた

というような説もあります。

 

このような事から、中毒者の間では、皮膚炎の刺激から体を守る為に、

広いダボダボな衣服を着る事が流行しました。

 

また、薬を服用すると体は痩せ、顔は色白になる事から、

五石散を服用出来る程裕福ではないのに、見栄を張り、

ダボッとした服を着て絶食し、街中をふらふらしながら

歩く人間までいたようです。

 

これ今でもありますね、目の下を黒く塗り麻薬中毒のような

ファッションにするという、アレです。

 

もちろん、何晏ばかりではなく、より強い刺激を求めて、

五石散の成分配合を変える人間もいたでしょう。

 

中には、ヒ素を配合し、激しい中毒症状で突然死する人間も出ました。

今でも時折ある、粗悪なドラッグを混ぜて中毒死するケースに似ています。

それでも、五石散が高価で特権階級のステータスである事から

ブームは中々去らなかったのです。

 

シミルボン

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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