赤壁や夷陵の戦いに比べて地味な扱いをされる濡須口の戦い。しかし実際には、魏においては蜀攻略以上に重要な作戦に位置付けられ、特に、第三次濡須口の戦いは魏軍も呉軍もオールスター総動員で戦っています。そこで、今回は呉の存亡の秋濡須口の戦いで功績をあげた呉将を紹介ご紹介卓抜した戦略眼で濡須塢を築いて魏軍を撃退した呂蒙を取り上げます。
濡須口に塢を築かせて三次にわたる戦いに貢献する
呂蒙が登場するのは、第一次濡須口の戦いの時です。この頃、呉軍は濡須口で北岸の魏と対峙していましたが、砦の類はまだなく、戦争がない時には呉軍は船上に待機していて、必要に応じて、上陸して攻撃を仕掛ける方法を採用していました。しかし、船の上は決して安全とはいえず、董襲が率いた巨大楼船五隻は夜中に突風を受けて舵を失い横転、沈没する憂き目に遭い董襲も水死同じく、蒙衝を率いていた徐盛の船も北岸に流されてしまい曹操軍に拿捕される所を、徐盛の武勇で奪い返した所でした。
その後、甘寧が100の騎兵で40万の曹操軍に奇襲を加えて、見事に成功すると言う快挙もありましたが、呂蒙の不安は去りません。
船では厳しい追撃には対応できない
西暦209年、陳蘭と梅成は灊山に立て籠り曹操に反旗を翻します。孫権は韓当を派遣して救おうとしますが、曹操が派遣した張遼や臧霸、于禁、張郃によって反乱は鎮圧されています。この時、孫権の援軍は上陸して陳蘭を救おうとしていますが、臧霸が来たので退却しようとしますが、追撃が厳しいので乗船できず多くの兵士が川に飛び込んで溺死しました。呂蒙はこの事件を忘れていなかったようです。そこで、水軍頼みにしないで、中州に塢を築いて危うくなれば塢に逃げ込んで籠城しようと考えたわけです。しかし、勇敢で向こう見ずな呉の将軍たちは、塢の建設を余計な事と嫌がります。必要な場合だけ上陸して敵を攻撃し、危うくなったら足を洗って、船に逃げ込めばいいのだと主張しました。
ここで呂蒙は、相手の追撃が激しければ、必ずしも安全に船に避難できないと主張しています。書かれてはいませんが、臧霸のケースも口に出したと考えれます。かつて、陳蘭を救助しようとして神出鬼没の臧霸に散々やられた事をトラウマにしているモノも多かったのでしょう。孫権は呂蒙の提案を入れて、濡須塢を建設しました。この塢は二つあったようで、塢と塢の間には城壁を築いています。城壁が三日月のように湾曲していたので偃月塢とも呼ばれていました。
第二次濡須口の戦いで臧霸を撃退
第一次濡須口の戦いでは、あまり活躍の場は無かった濡須塢ですが、217年の第二次濡須口の戦いでは、大きな役割を果たします。この時には、朱然が濡須塢を防衛していましたが、張遼と臧霸の攻撃を朱然は一万張の弩で迎え撃ち、この為に布陣さえままなからない張遼と臧霸は退却せざるを得ませんでした。ここで呂蒙の軍勢が攻勢に出て、魏軍を散々に打ち破り、曹操は退却を決意する事になるのです。戦いは長引き、春3月に長江の水かさが増えてくると魏軍は諦めて濡須口から引き揚げて呉軍は勝利します。
呂蒙の死後も魏軍を撃退した濡須塢
呂蒙の死後、西暦223年には魏の名将、曹仁が濡須塢に襲いかかります。この時には、魏は三方面作戦を取り、江陵、洞口も戦場でした。曹仁は濡須塢の兵力を減らす為に、羨渓を落とすと虚報を流し、濡須塢を守備していた朱桓は、これに引っ掛かり兵力を派遣してしまい塢の守備兵は5000人までに低下します。
勝機と捉えた曹仁は、総攻撃を加えますが、朱桓は持ちこたえ、曹仁の息子の曹泰が率いる本隊を火攻めで撃破し、別動隊の常雕を配下の駱統と厳圭が破り、将軍の王双を捕虜にし常雕を戦死させる功績を挙げました。もちろん、これは虚報に引っ掛かっても気落ちせずに、逆に濡須塢が弱体化したかのように装って曹仁を誘い込んだ朱桓の力も勝利の原動力です。ですが頑強な濡須塢が存在すればこそ、少ない手勢で曹仁を撃破できたという事は疑いなく、呂蒙の先見の明が窺がわれます。
三国志ライターkawausoの独り言
濡須塢の存在がもしなければ、呉軍は従来通りに船上と陸を往来して、魏軍を攻撃するスタンスを崩さなかったかも知れません。これでは、夜襲などで慌てた時には、呉兵は船に戻る事が出来ずに、次々に河に飛び込んで溺死する事態は避けられなかったでしょう。かつて、大敗をした経験を無駄にせず塢の建設を願い出た呂蒙はやはり偉大な都督だったのです。
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