三国志で最も有名な「赤壁の戦い」は、三国志正史「魏書」ではほとんど扱われていませんので、参考になるのが、「呉書」または「三国志演義」です。
特に知名度があるのが、三国志演義の赤壁の戦いになります。もちろん主役は劉備(りゅうび)の天才軍師、諸葛孔明(しょかつこうめい)。周瑜(しゅうゆ)も魯粛(ろしゅく)もその引き立て役に過ぎません。
丞相、箭を謝す
三国志演義の第46回・用奇謀孔明借箭では、周瑜が諸葛孔明に10万本の矢を調達・生産することを命じます。
諸葛孔明は3日以内で実現できると答えました。周瑜はその返答に喜びました。そして弓矢職人や弓矢の材料調達を妨害し、生産できなくして、約束を反故したことを理由に才能溢れる諸葛孔明を殺害しようとしたのです。
しかし、諸葛孔明は藁束を並べた軍船を20艘用意し、深い霧が立ち込めた夜に魯粛を伴い、曹操(そうそう)軍の陣営近くまで接近します。敵も気づき、夜襲に対抗して一斉射撃を仕掛けてきます。魯粛は怯えましたが、諸葛孔明は兵に「丞相、ありがたく矢を頂戴した」と叫ばせて帰還しました。
草船借箭の計
これは三国志演義の名場面ですね。私も幼心に、諸葛孔明の賢さに驚いたことを覚えています。諸葛孔明は、3日の間に深い霧が立ち込めることも見抜いていたのです。
こうして10万本以上の矢を集めた諸葛孔明に対し、魯粛ばかりでなく、周瑜すらも「私の到底及ぶところではない」とため息をつきました。草船借箭の計と呼ばれています。3日以内に10万本も矢を生産することなど不可能な話だったのですが、まったく別の視点・手法で諸葛孔明はこの難題をクリアしたのです。
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三国志演義の創作
しかし、実際のところ、このエピソードは、諸葛孔明の逸話ではなく、孫権(そんけん)の逸話のようです。「呉書」には、赤壁の戦いの後の217年、孫権は濡須で曹操と対峙したとあります。
そして魚豢の「魏略」によると、孫権は軍船で敵情視察を行い、曹操軍から大量の矢を浴びせられます。矢の重さで転覆しそうになったほどでした。そこで孫権は船首をめぐらし、反対を向いて矢を受けることで軍船のバランスを保ったと記されています。
草船借箭の計は、この孫権のエピソードをモチーフにして創作されたようです。つまり諸葛孔明は10万本の矢を集めてはいませんし、周瑜も悔しがっておらず、魯粛も驚いていないということになります。
そもそも赤壁の戦いの功労者は周瑜
赤壁の戦いで曹操を破ったのは、まぎれもなく周瑜の功績です。もちろん黄蓋(こうがい)の捨て身の偽投降や火計も大きな成果をあげています。
諸葛孔明が10万本の矢を準備したわけではなく、また祈祷によって東南の風を呼んだわけでもありません。さらに関羽(かんう)が落ち延びる曹操に遭遇し、見逃したわけでもないのです。そのほとんどが三国志演義の演出になります。
これらの演出は、劉備軍のおかげで孫権は曹操を撃退することができ、曹操は命を長らえることができたということを読者に印象付けたいためです。
それによって、曹操に対抗できるのは劉備だけであり、そのために同族の劉璋(りゅうしょう)の領土を制圧しても仕方がないという話になります。曹操を倒し、漢王朝を再興できるのは、劉備しかいないから、という強硬論です。
三国志ライターろひもとの独り言
もちろん、三国志演義の絶妙な演出がなければ、三国志がここまで盛り上がることはなく、広く知れ渡ることはなかったでしょう。小説や漫画、アニメやゲームなどで取り上げられることもなかったはずです。
ただ、魯粛は抜群の先見の明を持っていた人物だと私は思っています。単なるお人よしのように描かれている三国志演義の魯粛はイメージとは違いますね。周瑜に関しては、曹操に匹敵する才能の持ち主という認識です。諸葛孔明の才能に嫉妬するなんて考えられないんですよね。
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