物語としての三国志では、たびたび華々しい一騎打ちが行われます。ですがこういうものはあくまでフィクション、現実には大将同士の一騎打ちなど、そうそう発生するものではなかったでしょう。ところが!
比較的史実を伝えている『正史三国志』の中で、稀に、本当に一騎打ちが発生した記録があります。そのひとつが、孫策と太史慈の一騎打ちです。そんな印象もあり、太史慈といえば、孫策と互角の力量をもった猛将で、かつ、一度は争った孫策の部下になった後は、忠義に厚い名将として活躍したイメージですね。
そんな華々しい登場をした太史慈ですが、孫策の後継者である孫権の時代になると、ほとんど登場しません。実は孫権の時代になって間もなく、太史慈は早世してしまったのです。ここで想像してみましょう。太史慈が、もし孫権軍でベテラン武将として長生きしたら、その後の三国志にどのような展開をもたらしたでしょうか?今回は、そんなイフ歴史を考えてみたいと思います。
この記事の目次
まずはおさらい!『正史三国志』で伝えられる太史慈とはこんな人
まずは実際の太史慈とはどんな武将だったか、『正史三国志』の記述をベースに整理してみましょう。太史慈は西暦でいう166年生まれの人物。曹操や劉備とほぼ同世代、後に登場する孫権よりはずっと年上です。
黄巾の乱が発生した際には、反乱軍討伐の一武将として活躍しました。年齢のみならず、「黄巾賊との戦いで実戦経験を積み、その過程で各地の群雄たちとの人脈も広げた」という点でも、曹操や劉備とよく似たキャリアの持ち主だったのです。黄巾賊滅亡後、太史慈は劉繇という人物の部下に加わります。
その劉繇が孫策と対立した際、太史慈は劉繇軍の中心的な武将として孫策と戦いました。引き分けに終わったとはいえ、一騎打ちを孫策と行ったのもこの時期です。
結局、劉繇は孫策に敗れますが、この際、孫策は太史慈を自分の部下に迎え入れます。孫策の厚い歓迎に感動した太史慈は、孫策に忠義を尽くすことを誓い、以降は孫策の勢力圏拡大に貢献することになりました。
ただし太史慈は西暦でいう206年、赤壁の戦いが始まる少し前に、残念ながら急逝したのです。
死の際には、「男として生まれたからには、やがては天下を目指すくらいのことをやってのけたかったが、それができずにこの世を去るのは残念だ」と、意外にも、チャンスさえあれば天下取りに名乗りを上げてみたかったとも取れる遺言を残しています。
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太史慈が長生きしていれば当然その後の緒戦に続々登場していた!
ではここから、イフ展開を考えてみましょう。太史慈が早世せず、むしろ長生きをしたら、どんな生き方をしたか?
まず当然ながら、西暦206年時点で早世しなかった場合、太史慈はさっそく、赤壁の戦いに登場したことでしょう。孫策と互角だった武勇の持ち主であり、この時代きっての弓の名手であったともいわれる太史慈、赤壁でも様々な活躍場面が描かれたでしょう。
赤壁の後にも、孫権軍はたびたび曹操の大軍に攻められピンチを迎えますが、こうした戦いにも太史慈は毎回投入され、曹操軍の有名武将達と張り合う常連の顔となったでしょう。もしかしたら、かの荊州争奪戦や、夷陵の戦いで、劉備軍の前にも手ごわい敵将として現れたかもしれません。
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長寿した太史慈が真に恐ろしいポテンシャルを見せるのは孫権の晩年?
しかし、いかがでしょう?ここまでのイフ展開では、「え?もとの歴史とそんなに変わっていないのでは?」と思った方も多いのでは?
確かに。考えてみたのですが、太史慈が孫権軍で長生きした場合、孫権軍の人材が厚くなって、君主の孫権がマネジメント面で助かるでしょうが、歴史が大きく変わるほどのインパクトがあるかとなると微妙です。
しかし『正史三国志』における太史慈の記述、気になる点が二つあります。
・太史慈についての記述は孫権の部下たちの列伝とは別の章で、あたかも別の勢力下の人物であるかのように登場する
・前述の通り、「本当は天下取りの野心があった」とも取れる遺言を洩らしている
もしかすると太史慈は孫策や孫権の直轄軍下ではなく、孫権の領土内のどこかの独立した太守を任命され、自前の領土と軍を持っていたのではないでしょうか?そうだとすると、そんな立場の太史慈が大活躍できる時期があります。晩年の孫権がかつての部下たちでも容赦なく粛清する暴君と化した時です!
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まとめ:太史慈が大活躍するための鍵は・・・年齢!
史実では、年老いた孫権が暴君となった時、それに対抗できるようなオオモノがいなかったため、呉は乱れてしまいました。もしこの時に、自前の領土と軍を持った太史慈が生き残っていたら?
かつて自分が忠誠を誓った孫策の弟が呉を自滅に追いやるのを看過できず、孫権に反旗を翻すかもしれません!その場合、孫権に弾圧されそうになっていた武将達が太史慈の基に集まり大勢力になった筈。反乱軍として、かなり勝機があったのでは?
忠義に厚い太史慈のこと、もし孫権を倒したとしても、孫家の血筋は断絶せず、孫権の親族から別の後継者を立て、自分はナンバーツーの座に留まることでしょう。ですが、「天下取りを目指してみたかった」と述懐している太史慈のこと、このような流れで呉のナンバーツーに出世すれば、孫家が弱体化した際に自分が事実上のトップとして政権を握り、駆け込みで三国の一角の長になるかもしれません。すると曹家を傀儡にした司馬一族と孫家を傀儡にした太史慈の対決があったかも!
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三国志ライターYASHIROの独り言
ただしこのシナリオの問題となるのは、太史慈の年齢です。前述した通り、孫権よりずっと年上の太史慈。孫権が暴君化する時期に太史慈が活躍するには、なんと彼には七十代後半まで長生きてもらわないといけない!
もしそれをやったら彼はかの厳顔や黄忠をも上回る「老いて盛んな将」の代名詞となったでしょう!とはいえあの時代に七十代後半というのはかなり稀。果たして大老将太史慈が活躍するシナリオ、ありでしょうか、なしでしょうか?
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