蜀の二代目皇帝、劉禅。政治を重臣たちに任せっきりにしていたこと、宦官に政治への口出しを許したこと、将軍・姜維が魏軍の侵攻を防ぐために奮戦しているにもかかわらずさっさと魏への降伏を決めたことから、劉禅の幼名である「阿斗」は「アホ」の代名詞となっています。
面白いですよね。これはこのまま放っておきたいです。でもたぶん、本当は賢い人だったと思います。
この記事の目次
劉禅は実権のない傀儡皇帝だった
劉禅は父親の劉備の後を継いで皇帝になりました。父・劉備はかつて流浪の兵団を率いる一介の傭兵隊長にすぎませんでしたが、赤壁の戦いの混乱に乗じて荊州南部を手に入れた後、蜀の名士たちの手引きによって蜀を手に入れました。
劉備が蜀を得る前には、蜀には劉璋が君臨していましたが、劉璋政権に対して不満を持っていた名士たちが劉備に国を売ったのです。劉璋政権で冷や飯を食わされていた人にしてみれば、劉璋を追い出して劉備に国をくれてやり、劉備に恩を売って重く取り立ててもらうほうがおトクだからです。
劉備はよそからぽっとやってきて上に乗っかっただけの人で、国の実体は名士たちが握っていたはずです。蜀という国は、人脈も地盤もない流れ者の脳筋戦争職人にすぎなかった劉備を、名士たちが操縦して建国した国です。劉備は木下大サーカスのホワイトライオンのようなスタープレーヤーにすぎず、オーナーでもなければマネージャーでもありませんでした。
劉備は戦上手で実績もあったため、ある程度は名士に対するおさえもききますが、息子の劉禅はそうはいきません。皇帝に即位しても、力を握っている人たちの言いなりになっておくしか生きる道はありませんでした。
政治をなまけていたのはアホだからじゃない
冒頭で、劉禅がアホだと言われる理由を三つあげましたが、そのうちの一つ「政治を重臣たちに任せっきりにしていたこと」は、劉禅をアホだったとする理由にはなりません。劉禅は傀儡皇帝であって、政治を執り行う余地がなかったのですから、重臣に任せっきりというのはごく自然なことです。
もし自分であれこれやろうとすれば、重臣たちから“佞臣が陛下の目をくらませている”とかなんとか難癖をつけられて邪魔をされるだけだったでしょう。ジタバタと政治を自分のものにしようとして毒殺されるなどという憂き目を見なかったことは、むしろ賢明でした。
宦官を起用したからといってアホだとはかぎらない
冒頭に挙げた、劉禅がアホだと言われる理由の二つめ「宦官に政治への口出しを許したこと」ですが、これも劉禅がアホだった理由にはなりません。名士たちからスルーされている状況では宦官しか言うことを聞いてくれないわけですから、宦官を起用したということは、劉禅にだって自分でやりたいことがあったんだろう、という程度の情報でしかありません。
そもそも、宦官=悪者という考え方が、名士側から見た偏見にすぎません。名士は政治を自分たちのいいようにしたい(皇帝に口出ししてほしくない)から、皇帝の意を直接受けて動く宦官を敵視してあしざまに言うのです。
蜀末期に力を握った宦官の黄皓は三国志にあしざまに書かれていますが、具体的にどんな悪さをしたという記述はありませんし(人を讒言したり魏が攻めてくるわけないと劉禅を言いくるめたりはしていますが、その程度のことはけっこうみんなやる)、黄皓が本当に悪いやつだったとしても、諸葛瞻・董厥・樊建らの重臣だって黄皓を放っておいたのですから劉禅だけをアホだと言うことはできません。
宦官・黄皓は悪いやつだったのか
三国志に記されている黄皓の悪事は、北伐の責任者を姜維から閻宇に交替させようとしたことと、魏が蜀に攻めてくるわけがないと劉禅を言いくるめて対魏防衛策の遅れを招いたことです。姜維と閻宇を交替させようとしたというのは、べつに悪事ではありませんね。
単なる人員交替案です。姜維より閻宇のほうがふさわしいと考える人は他にもいたかもしれません。諸葛亮伝の注釈に引かれている『異同記』によれば、諸葛瞻や董厥も、姜維の対魏強攻策が国力をすり減らしていることを憂慮して、姜維を閻宇と交替させたいと考えていたそうです。
もう一つの悪事、対魏防衛策の遅れを招いたこと。これはいけませんね。蜀の国策が“いかなる犠牲を払ってでも絶対に魏と呉を倒して天下統一する”であるとすれば、これはいけません。しかしもし、劉禅が“なるべく犠牲が少なく天下泰平になるなら旗の色なんかどうでもいいじゃないか”と考えていたとしたら、黄皓は劉禅の意を忖度しただけだということになります。のちに魏軍が綿竹まで迫った時点で劉禅が早々に降伏を決めたことからすると、劉禅は“いかなる犠牲を払ってでも”という考え方はしていなかったことでしょう。
本当にアホだったらもっとズタボロになってから降伏する
冒頭に挙げた、劉禅がアホだと言われる理由の三つめ「姜維が魏軍の侵攻を防ぐために奮戦しているにもかかわらずさっさと魏への降伏を決めたこと」ですが、そのタイミングで降伏を決断できたのはすごいことです。本当にアホで決断力がなかったら、まだ盛り返せるかもしれない~と思いながらずるずると先延ばしにして、国がどうしようもなくひどいことにならなければ降伏する決心がつかなかったことでしょう。
魏軍が蜀の領内に侵攻してくる前から、蜀の内部には、度重なる戦役で国が疲弊しているという論がありました。漢中盆地が敵の手に落ち、四川盆地にも敵軍が入ってきたという状況で、いくら姜維の精兵が健在であったとしても、そこから巻き返しを図ろうとすれば下々に非常な負担がかかります。そこまでしなくてもいいじゃないか、俺一人が悪者になって市民生活が守られるならそれでいいんだよ、とばかりに降伏した劉禅は、あきらめ早すぎるヘタレかもしれませんがアホではありません。
狙いすました降伏だった?
仮の話ですが、もし劉禅が以前から「こいつはどうも魏が天下統一しそうだ」と考えていたとすれば、いかにしていい条件で魏に併合されようかと機をうかがっていたことでしょう。国に余裕がある間は臣下たちが納得しないでしょうし、ボロボロになってせっぱつまってから降伏したのでは条件が悪くなります。姜維の精兵が健在なうちに目の前に敵軍が現われてくれたことは、渡りに船だったのではないでしょうか。
魏にとってのもう一つの敵国である呉が健在でしたから、魏は呉の人たちに“俺らに降伏したらこんなにいい暮らしが待ってるぞ”と見せびらかすために蜀の遺臣たちを厚遇するはずなので、劉禅がいつかは魏に降伏しようとつねづね考えていたのだとすれば、いいタイミングで決断したと思います。
アホ伝説の極めつき
冒頭では述べませんでしたが、劉禅のアホエピソードとして最も有力なのは、三国志後主伝の注釈にひかれている『漢晋春秋』にあるこんな話ではないでしょうか↓
蜀が魏に降伏した後、司馬昭が劉禅との宴会の席で蜀の音楽を
演奏させたところ、人々はいたましい思いにかられたのに
劉禅は痛くもかゆくもない様子で楽しそうにしていたので、
司馬昭は「無神経なやっちゃ」とあきれた。
また、他の日に司馬昭が「蜀が恋しいでしょうね」と聞いたら
劉禅は「ここでは毎日楽しいので蜀は懐かしくなりません」と答えたので、
蜀から付き従っていた郤正がこっそり「こんどあんなことを言われたら、涙を流して
“蜀には先祖の墓があり毎日思わぬ日はありません”と答えて下さい」と言った。
後日そのシチュエーションで劉禅がそれをやると、司馬昭が
「郤正の台本まんまですな」と言い、劉禅はびっくりした顔で「その通りです」と答えて
みんなに笑われた。
この話、私は劉禅のアホさではなく聡明さを示すエピソードとして解釈しています。
アホをよそおい自分と遺臣たちを守った
劉禅が司馬昭に対して、蜀なんて全然恋しくないす、いまの暮らし最高す、なんの不満もないす、というポーズをとったのは、自分に野心がないことを示すためです。司馬昭が劉禅にねちねちと「蜀が恋しくはないか」とたずねるのは、こいついつか背くんじゃねえかと疑っているからです。
ここはひとつアホのふりをして蜀なんて忘れちまったと言っておかなければ、自分の身が危ないです。また、劉禅が蜀を思って泣いているなどということになると、蜀の遺臣たちが“我が君のためになんとか蜀を復活させられないか”などと考え始めて物騒なことになりますから、彼らのためにも蜀への未練を断ち切ってあげなければなりません。アホをよそおって自分と臣下を守った賢い人なんですよ。
三国志ライター よかミカンの独り言
若くして帝位につき、名士たちと上手に付き合いながら国体を維持し、降伏にさいしては民に大きな犠牲を強いることもなければ辱めをうけさせることもなく、降伏後には司馬昭の疑念をかわして自身と臣下を守りきった劉禅。逆境の中で難しい舵取りを巧みにやり遂げた聡明な人であると言ってよいでしょう。
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