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劉備と孔明の対立!故郷への想いは[真逆]だった

2024年7月30日


諸葛亮孔明の天下三分の計に感化される劉備

 

世に水魚(すいぎょ)(まじ)わりと言われ、お互いがいないと生きてはいけない程の親密さを(うた)われた劉備(りゅうび)諸葛孔明(しょかつこうめい)、私達は先入観でつい二人の人生にも似たような部分を見出してしまいますが、実は二人は故郷については、まるで正反対の道を歩んでいました。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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若き日に故郷を捨てた劉備

劉備玄徳

 

劉備は幽州(ゆうしゅう)の生まれですが、若い頃に故郷を捨ててしまいました。生家は豪族と言えど没落し貧乏でしたが、同族の劉元起(りゅうげんき)の援助で同郷の大学者の盧植(ろしょく)の門下生として学ぶというキャンパスライフを送ります。しかし、劉備は勉強には身を入れず、衣服を飾り立てて音楽と乗馬、ドッグレースなどに熱中するようになります。

 

同族とはいえ親戚の金でこんな事をしているのが、いかにもボンクラ学生ですが実は、ドッグレース場や音楽会場は地元の名士や任侠(にんきょう)の徒が出入りする場所でした。つまり劉備はただ遊んでいたのではなく、土地の有力者と交わり自分の顔を売っていたのです。

 

劉備玄徳

 

それは裏を返せば援助してもらっている劉元起のバックアップなど取るに足りないと劉備が考えていたという事です。まもなく中山の大商人、蘇双(そそう)張世平(ちょうせいへい)の知遇を得るや資金を援助してもらい傭兵団を組織して校尉(こうい)鄒靖(すうせい)黄巾賊討伐(こうきんぞくとうばつ)に従軍して幽州を離れ青州に向かいます。その点について史書に劉備が名残を惜しがったとか、功名を立てて、いつか故郷に錦を飾るとかありがちな立志伝は一つもありません。或いは劉備は故郷が嫌いで捨てたかったのかも知れません。

 

 

故郷に愛着を持ち続けた孔明

諸葛孔明

 

逆に孔明にとっての故郷、徐州琅邪郡陽都(じょしゅうろうやぐんようと)は生涯思い続けた場所でした。

 

処刑を下す曹操

 

その理由は幼少の頃に曹操(そうそう)徐州大虐殺(じょしゅうだいぎゃくさつ)に遭遇して故郷を追われたからです。父母を幼いころに失い、従父の諸葛玄(しょかつげん)と共に苦しい流浪生活を経た孔明にとり穏やかな少年期を送れた琅邪郡陽都の暮らしは理想郷にも思えたでしょう。また、琅邪郡陽都というのは春秋戦国戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)の覇者の一つ(せい)国に属し非常に学問が栄えたという土地でもありました。

 

孔明も無名時代には、梁父吟(りょうほぎん)を好んで口ずさみ、斉の三人の勇士を、宰相の晏嬰(あんえい)が桃二つで知略を用いて殺したという内容を讃えていました。また、学友達と自分を誰に準えるかという話が出た時には、、斉の名宰相の管仲(かんちゅう)と、斉を滅亡寸前に追い込んだ燕の楽毅(がくき)を挙げるなど常に琅邪郡陽都を忘れていないチョイスをしています。

 

亡くなる魯粛と悲しむ孫権と孔明

 

 

それに孔明の交際が魯粛(ろしゅく)諸葛瑾(しょかつきん)など故郷徐州の人々に多いのも見逃せません。特に魯粛は孔明と初対面の時に「諸葛瑾とは昔からの友人です」とPRしすぐに孔明とも交友を結んでいます。

 

麋竺

 

同じく徐州出身でも、麋竺(びじく)麋芳(びほう)との間の逸話がない(地位が違いすぎて会話にならないだけかも知れませんが・・)孔明は魯粛との間には親密な関係を築いたのは、同じ徐州でも兄の友人であり、故郷、琅邪郡陽都の香りがしたからかも知れません。孫呉の厳畯(げんしゅん)も諸葛瑾や魯粛と交友があり、孫権の皇帝即位の時に使者として蜀に赴きますが孔明は立派な使者であったと褒めています。ここも、どうも琅邪郡陽都繋がりを感じるのですが、、

 

 

推測、劉備は同族に不義理をしたのではないか?

劉備

 

一方の劉備は、その人生で幽州繋がりの人脈を余り見出せません。張飛(ちょうひ)は幽州人ですが、それ以外は公孫(こうそん)サン、盧植とあまり縁が深いとは言えないレベルです。元々、幽州人は面倒見の良い人々なのにどうして劉備には、故郷のニオイが一切しないのでしょうか?

 

劉備と公孫瓚

 

ちょっと気になるのは、劉備が公孫サンの配下として袁紹(えんしょう)を防いだ手柄で平原相を任された時に、郡民の劉平(りゅうへい)という男が劉備の下になる事を嫌がり刺客を雇って殺そうとしたという件が正史にある事です。

 

劉備

 

劉平という名前と刺客を雇う程度に財力がある事を考えると、同族のような感じがしますが、劉備が自分の上の地位になった程度で殺そうと刺客を放つでしょうか?ここからは推測ですが、この劉平の記述より前、西暦188年の張純(ちょうじゅん)の乱の時、同じ平原の劉子平(りゅうしへい)という人が劉備には武勇があるからと推挙して、劉備と一緒に戦ったという記述が典略(てんりゃく)にあります。

劉備

 

ところがこの時に劉備は戦場で負傷し、死んだ兵士の中に隠れて戦をやり過ごし、味方の救援部隊に拾われて生還しました。もしかして、この時、劉備は劉平のピンチを見捨て死んだふりをし自分だけ助かってしまった事を劉平と同族の劉子平に知られてしまったのではないでしょうか?

 

「同族を見殺しておいて平原の相とはふざけおって、貴様など殺してやる」

 

敗戦する劉備

 

 

こうして激怒して刺客を放ったとすれば、劉備に殺意を持つのも頷けます。なんとか刺客を丸め込んだ劉備ですが、この不義理が幽州の劉氏にも伝わり劉備は故郷出禁になり、帰れなくなったのではないでしょうか?

 

 

 

劉備と孔明は故郷捨てた派と故郷憧れ派のコンビ

劉備と孔明

 

こうしてみると劉備と孔明は、片や出禁まで喰らった故郷捨てた派ひたすら故郷に憧憬(どうけい)を持ち続けた派の正反対コンビだと言えます。まあ、二人とも理由は正反対ながら故郷を頼れない立場は同じでありそれが、任侠集団の劉備軍で二人が結びつく切っ掛けになったのでしょう。

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso

 

妻子であっても平気で捨てる劉備ですから義兄弟の契りを結んだわけでもない同族の男くらいは、生き残る為には平気で切り捨ててしまいそうです。それが劉子平に知られ、同族を見捨てた咎で幽州出禁になったというのが劉備が故郷を捨てざるを得なかった理由だとしたら面白いんですけどね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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