言葉、とはふとした瞬間に誕生するものです。最近では毎年流行語を皆でチェックしまますね。我々が現代で使っている言葉の中には大昔に誕生した故事成語やことわざ等の慣用句があります。こうした慣用句は、昔の人々が彼らの経験や彼らの生きた時代の背景に従って作られました。
日本語でのこうした慣用句は、昔の日本での出来事が起源となっていると思われがちです。しかし、中には中国の三国志から生まれた言葉も存在します。今回は三国志から派生した日本で用いられている言葉を紹介します。
水を得た魚
この言葉は、親密で離れがたい人間関係のことを指します。水魚の交わりとも言います。三国志に通じている人は御存じと思いますが、これは劉備(りゅうび)と孔明(こうめい)との関係を指しています。本来は、「君臣水魚の交わり」と呼び、親密な君臣関係を表現する言葉でした。
劉備(りゅうび)は孔明(こうめい)を臣として迎えた後、主君と臣下の関係ではあったものの非常に親しい間柄となりました。その関係を義弟の関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は喜びませんでした。
新参者がちやほやされていると古株は複雑ですね。それを察した劉備(りゅうび)は彼らに伝えました。
「私が孔明を得たのは、水が魚を得たようなものだ。その話はもうしないでくれ。」
実際には、当時曹操(そうそう)と対立していた劉備(りゅうび)は、蜀の建国と政権の樹立のために、実際に戦う武将のみではなく内政や軍備を仕切る多くの名士を用いなければならないと考えていたため、軽々しく扱えなかったのでしょう。
月旦評
月旦評(げったんひょう)とは、本来”品定め”を意味します。この言葉は、曹操(そうそう)を評価した後漢の許劭(きょしょう)が行っていたことです。許劭(きょしょう)は人を見る目が有り、人と話をすると、その人がどのような人物でこれからどのようなことを為していくのかが分かるという、並みはずれた慧眼の持ち主でした。
彼には従兄弟の許靖(きょせい)がおりました。後年、蜀が建国されると蜀漢に仕えた許靖(きょせい)に、許劭(きょしょう)は毎月の一日に品大を変えて人物評価を行っていました。現代とは異なり、インターネット等は無く情報を得る手段が限られていましたので、こうした人物評は非常に貴重だったと考えられます。この行いから派生して、月旦評という言葉が生まれました。
間違って使われる苦肉の策
この言葉は、日本では、「やむをえず苦し紛れに生み出した手段」という意味で用いられています。しかし、元々は三国時代の兵法三十六計の第三十四計にあたる戦術である苦肉の計から来ています。人間が自分自身を傷つけることは無い、と思いこむ心理を利用して敵をだます計略です。これは、かの有名な赤壁の戦いで呉の老将、黄蓋(こうがい)が用いた策です。これによって、曹操(そうそう)の率いた大群を追い返すに至ったと言われています。
白い目で見る
この言葉は、軽蔑あるいは軽蔑のまなざし、の意味で用いられます。この言葉は、三国時代の魏に現われた飲んだくれの賢者達、「竹林の七賢」の一人である阮籍(げんせき)が使った言葉が元になっています。もともとは「白眼視」という言葉です。彼は元々老荘思想家であり、形式的な礼節に捉われた儒教を嫌っていました。
当時、魏の司馬懿(しばい)は儒教の悪用を行い、形式的に従わせることで政界を牛耳ろうとしていました。阮籍(げんせき)は司馬氏に迎合する輩と会う時には、権力に従う彼らを軽蔑し、目を会わせないため白眼で接したそうです。逆に好意を抱く人に会う時には相手の目を直視して黒目(青眼)で見たといわれています。
破竹の勢い
激しく制止し難い勢い、という意味の言葉です。杜預(どよ)という将が言った言葉が期限となっています。当時、三国志も終局に近づき、蜀が滅び魏は簒奪され、司馬懿(しばい)の孫、司馬炎(しばえん)が建国した西晋の国に杜預(どよ)はいました。
彼は軍を率いて呉を攻めましたが、季節が夏に向かうため、冬まで攻勢を待つべしとの意見が出されました。これに対して、杜預(どよ)は「今我が軍の威勢は奮い立っている。例えるならば竹を割るようなものだ。最初の数節を切れば、後は刃物を歓迎するかのように、手を触れずとも割ることができるであろう。」と答えました。その後、西晋は快進撃を続け、呉の孫皓(そんこう)は降伏し、三国時代は終焉を迎えました。
三国志ライターFMの独り言
日常的に用いている言葉でも、その起源は知らない人は多いのではないでしょうか。破竹の勢い等の言葉は、書いて字のごとく、意味は分かりますが、その起源に三国時代の戦乱があったとは想像もできないでしょう。
苦肉の策等は、間違った意味で用いられている、というのはしばしば話されます。しかし、間違った意味で使われているということは、実は別の起源があるのではないか、等ということも想像できて楽しいですね。
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